[週刊ファイト8月8日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼甲子園100歳、プロレスは古希! 日本人に愛される理由
by 安威川敏樹
・たった1枚の図面を頼りに、僅か4ヵ月半で甲子園球場が完成
・スキー・ジャンプに温水プール、甲子園では何でもアリ
・甲子園でボクシングとアメフトを同時に開催!?
・空襲や大地震にも耐え抜いた、甲子園の強固なボディ
・日本にプロレスを定着させた力道山のスタイル
・アメリカ生まれのスポーツが日本人に好まれたワケとは!?
今年の8月1日、兵庫県西宮市にある阪神甲子園球場が100歳を迎える。言うまでもなく高校野球の聖地であり、プロ野球では阪神タイガースの本拠地だ。
甲子園球場の存在が日本の野球を支えてきたと言っても過言ではない。野球以外でも、たとえばダンス甲子園や俳句甲子園など○○甲子園と名の付く大会は多く、『甲子園』という名称は日本一を競う舞台の代名詞となっている。
今年、もう一つメモリアル・イヤーを迎えたスポーツがあった。そう、プロレスである。プロレスが日本で本格的に始まって今年で70年を迎えた。つまりプロレスは70歳、古希である。
甲子園誕生から30年遅れているとはいえ、完全にプロレスは日本に定着した。プロレス大会で、年に数回も何万人もの大観衆を集める国なんて、日本とアメリカ以外にはそうはないだろう。
甲子園とプロレスは、なぜ日本人に愛されてきたのか? その理由を探ってみたい。
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たった1枚の図面を頼りに、僅か4ヵ月半で甲子園球場が完成
甲子園球場が誕生したのは今から100年前、1924年(大正13年)8月1日である。夏の中等野球(現在の高校野球)が10回大会を迎え、それまで使用していた鳴尾球場が手狭になったため、思い切ってアメリカのメジャー・リーグにも負けない本格的な大球場を造ろうと計画されたのだ。
鳴尾球場というのは、現在の阪神タイガースの二軍本拠地である阪神鳴尾浜球場とは全く関係なく、鳴尾競馬場の中に二面造られた即席の野球場だった。スタンドも木造の移動式という粗末なもので、年々人気が高まってきた中等野球の大観衆をさばききれなくなり、スタンドから溢れた観客がグラウンドになだれ込んで試合が中断することもしばしばあったのだ。
新球場の建設を担当したのは阪神電気鉄道。ちょうどその頃、武庫川が氾濫を度々起こしていたため、その支流である枝川と申川が廃川になり、阪神電鉄がその一帯を買い取った。
当時はまだ、この辺りは雑木林で、早い話が何もない所である。そこに阪神電鉄は、新球場を中心とした一大リゾート地を開発しようと目論んだのだ。
この頃にはまだ、現在のようなプロ野球リーグは存在しない。したがって阪神タイガースなど影も形もなく、アマチュア野球に過ぎない中等野球に阪神電鉄は社運を賭けたのだ。
新球場の建設計画が始動したのは、その前年の1923年。翌年には新球場を完成させる必要があったため、アメリカから取り寄せたニューヨーク・ジャイアンツ(現:サンフランシスコ・ジャイアンツ)の本拠地だったポロ・グラウンズの1枚の図面を頼りに、設計図製作が始まった。
何しろ、当時の日本にはまだ本格的な野球場が1つもない時代である。渡米する旅客機もなく、時間がないため現地で野球場視察もできない。まさしく、手探りでの球場建設スタートだった。
ようやく設計図を作成し、工事が始まったのは翌1924年3月16日。夏の中等野球が始まる5ヵ月後の8月には、新球場を完成させなければならない。
重機なんてない時代、牛にローラーを引かせるという原始的な方法しかなかった。それでも、僅か4ヵ月半後の8月1日に、新球場は完成したのである。現在では考えられないスピードだ。
その理由として、川の跡地だったことが幸いし、コンクリートの原料となる石や砂利はタップリあったことが挙げられる。さらに、電鉄会社が工事を請け負ったということで、当時はまだ珍しかった電灯も、電車の架線から電気を引くことによって、夜でも工事が可能だったのだ。夜間労働は賃金が昼間の数倍も高かったため工員が殺到し、しかも当時は労働基準法もなく、周囲には住宅もなかったので騒音の苦情も心配せずに、夜通しで工事を進めることができたのである。
そして8月1日、メジャー・リーグに比肩する東洋一の大球場は完成した。だが、その圧倒的な巨大さに、誰もが息を呑むのと同時に、不安が頭をよぎったのだ。「あまりにも大き過ぎる」と。
有り得ないほどの広いグラウンドに、収容人員5万人という大スタンド。こんなにデカい球場を造って、満員になるなんて不可能だと思われたのだ。
しかし、全国中等野球大会の第4日に、地元の学校が出場することもあって、絶対に出ないだろうと言われていた満員札止め通知が早くも出たのである。
▼超満員に膨れ上がった、夏の高校野球での阪神甲子園球場(2012年8月23日撮影)
空襲や大地震にも耐え抜いた、甲子園の強固なボディ
新球場は甲子園大運動場と命名された。甲子園が誕生した1924年というのは、中国の十干(いわゆる甲乙柄丁)の最初の年である甲(きのえ)年、そして十二支の最初の年の子(ねずみ)年という60年に一度の甲子(きのえね)の年のため、縁起を担いで『甲子園』となったのである。
そして『球場』ではなく『大運動場』としたのは、野球だけではなく多目的スタジアムとして甲子園が開場したからだ。当時の甲子園は外野が異常に広く、そこでラグビーやサッカーなどを行えるようにした。その後、スタンド拡張のため、外野部分は狭められている。
甲子園が完成する年の春には、現在の春のセンバツが名古屋の山本(八事)球場で第1回大会が開催された。当初は、春のセンバツは全国各地を持ち回る予定だったが、甲子園の完成によりセンバツも第2回大会以降は甲子園で開催されるようになったのだ。ここに現在まで続く『春夏の甲子園』が始まりを告げることになる。
多目的スタジアムらしく、戦前の甲子園ではスキーのジャンプ大会までが催された。また、スタンド下には当時としては珍しい温水プールも設置され、日本のお家芸である水泳競技を支えたのである。
1934年(昭和9年)にはベーブ・ルースを中心とするメジャー・リーグのオールスター・チームが来日、全日本チームと対抗戦を行った。その舞台の一つが甲子園球場で、超満員の観衆を集めたのである。
その年には、読売新聞社が主体となって全日本チームを母体に東京巨人軍を結成、これが現在の読売ジャイアンツだ。読売新聞社はプロ野球リーグを創設すべく、甲子園球場を持つ阪神電鉄に打診する。プロ野球リーグに参加しないか? と。翌1935年に、読売新聞社の要請に応え、阪神電鉄は大阪タイガース(現:阪神タイガース)を創立した。そして翌1936年、日本初のプロ野球リーグが始まる。もし甲子園球場がなければ、阪神タイガースも存在しなかったかも知れない。
しかし、当時は日米関係が悪化し、プロ野球リーグ創設から僅か5年後の1941年12月8日に太平洋戦争が勃発。日本はスポーツどころではなくなった。特に野球は、敵国アメリカ生まれの敵性スポーツとして忌み嫌われるようになったのである。
甲子園のスタンド下は軍需工場となり、外野は軍用トラックの駐車場となった。さらに内野の土部分は芋畑と化したのである。内野スタンドを覆っていた大屋根の大鉄傘は、軍艦を造るための金属供出という名目のもとに撤収された。
そして、軍需工場となってしまった甲子園に、さらなる悲劇が襲う。『軍需工場』たる甲子園球場は米軍に狙われ、広島に原子爆弾が落とされた1945年8月6日に大空襲を受けた。甲子園は米軍機による大量の焼夷弾のため、3日間も燃え続けたという。
戦後、甲子園は連合軍の管理下となり、日本では甲子園を自由に使えなくなった。1946年に復活した夏の全国中等野球大会も、隣りの西宮球場で行われたのである。
しかし、翌1947年の春のセンバツでは甲子園の使用許可が降り、以降は甲子園を継続的に使用することができるようになった。
そして、この年には第1回甲子園ボウルが行われる。これが現在まで続く、アメリカン・フットボールの大学日本一決定戦で、球児のみならずアメフト選手も甲子園を目指すようになった。
さらに、この年の甲子園ボウルは試合が長引き、この日の夕方に甲子園の内野部分で行われたボクシングの試合と重なってしまい、外野ではアメフト、内野ではボクシングという、今では考えられない全く異なるスポーツを同時に見ることができたのである。
その後の甲子園は劇的に進化。手書きだったスコアボードは1984年に電光掲示板となり、現在ではLEDによるカラー・ボードでのビジョンが映し出されるようになった。
その一方で、手書き文化を踏襲しつつ、電光掲示板となった今でも『黒板にチョーク』というイメージを守って黒地に白い文字、そして甲子園独特の明朝体が受け継がれている。
それだけではなく甲子園の内装も時代に合わせて進化しており、齢100歳にして古臭さは全くない。それでいて、昔ながらの伝統はキッチリ守っているのである。
1995年(平成7年)には、阪神・淡路大震災が甲子園を襲った。しかし、スタンドは多少のヒビ割れがあった程度で、補修工事を経て甲子園はそのまま使用されたのだ。
なお、メジャー・リーグで甲子園よりも古い現存の球場としては、ボストン・レッドソックスの本拠地であるフェンウェイ・パーク(1912年開場)と、シカゴ・カブスの本拠地のリグレー・フィールド(1914年開場)がある。
それでも、これらアメリカの球場は、戦禍に見舞われたこともなければ、大きな地震を経験したこともない。
それに対して甲子園は、米軍の空襲や阪神・淡路大震災にも耐え抜いたのだ。その理由として、甲子園は元々良質の石や砂利に恵まれた川の跡地に建てられたことが挙げられよう。
甲子園球場は、爆弾や大地震にも決して負けなかった、世界でも稀有のスタジアムである。
▼空襲や大地震にも耐え抜いた、100歳となる阪神甲子園球場の外壁(2024年3月20日撮影)
日本にプロレスを定着させた力道山のスタイル
プロレスが日本で本格的に始まったのは、今から70年前の1954年(昭和29年)2月19日、東京・蔵前国技館で開催された力道山&木村政彦vs.シャープ兄弟(ベン&マイク)のタッグ・マッチだ。それ以前にも日本でプロレス興行は行われていたが、全国ネットでテレビ中継されたこの日が日本でのプロレス誕生日と言っても過言ではない。
以降、日本でプロレスは大ブームを巻き起こし、日本全国どこへ行っても会場は超満員、テレビも高視聴率を叩き出したのである。
太平洋戦争が終わったのは、その僅か9年前。まだまだ戦争の爪痕が色濃く残っていた時代だった。サンフランシスコ平和条約が締結されたのは3年前の1951年。つまり、それまでの日本は独立国ではなく、連合国の占領下にあったのだ。