早すぎた天才アンディ・カウフマン没後30周年~マット界舞台裏4月24日号フレッド・ブラッシー映画も制作

 早すぎた天才コメディアン、アンディ・カウフマン(1949年1月17日 – 1984年5月16日)が没後30周年を迎えた。
 アンディ・カウフマンは1975年の初回から地上波NBCの長寿番組『サタデー・ナイト・ライブ』に出演。特に1982年頃の女子との戦いシリーズを皮切り、マット界とは切っても切れない人物となった。本人はコメディアンと呼ばれるのを嫌い、パフォーマンスアーティストだと称していた。女がアンディをピンフォールしたら$1000賞金との触れ込みで毎週試合を高視聴率番組で展開、ある意味では女子プロレスの存在を広範囲に知らしめた功績がある。日本は例外というか特殊であって、米国では一般には女子プロレスはタブーだったからだ。また、70年代後半にはサイドギミックに、のちに故・ルー・リード夫人となるマンハッタン在住の鬼才ローリー・アンダーソン嬢を使っていた。
 わずか35歳の生涯で、がんの治療にフィリピンに向かうなど、ジャンボ鶴田さんの最期と重なる部分も指摘されているが、伝説とは異なりカリフォルニアの病院で亡くなった。究極のグランド・アングルが自身の死を偽装することだったため、実際、多くの人が本当の死を信じていなかった逸話がある。「どうせまたふらっと現れる」という神話は、熱心なフォロワーたちから今日でも信じられている。信じる者がいる限り、偽装死はシュート化したことになろう。

 プロレスを作る側、業界用語でbooker(現場監督)を経験したことがある諸氏なら、誰しもがそのアングルとリアルの境界線をさまようスキットに強い影響を受けている。このフレッド・ブラッシーとの写真にあるように、ネックブレイスをつけた姿はニューヨークMSGのバックステージでもカメラマンたちの「この一枚」となっている。
 これは南部の帝王ジェリー・ローラーとの抗争で、ミッドサウス・コロシアム(プロモーター=ジェリー・ジャレット)にて必殺パイルドライバーで首を折られたと訴えて一般新聞が取り上げる”事件”になったことが発端。1982年マンハッタンで『デビッド・レターマン・ショー』に出た際も、司会のレターマンを巻き込み、シュートとワークの境界線が破られ収録スタジオは大混乱、放送したNBCに200万ドルの訴訟を起こすなど大きな”事件”となっている。誰がなにを、どこまで事前に知っていたかは、当事者たちは墓場まで持っていくのがお約束だ。ジャネット・ジャクソンの「おっぱいポロり事件」が、アクシデントだというのと同じである。
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 彼の伝説の数々は、R.E.M.が♪マン・オン・ザ・ムーンという曲にして、歌詞のなかにはフレッド・ブラッシーも出てくる。また、この曲をモチーフに、ミロス・フォアマン監督がジム・キャリー主演、ガールフレンドのリン役コートニー・ラヴで映画『マン・オン・ザ・ムーン』(1999年)を撮っており、大変素晴らしい作品に仕上がっている。
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 マット界舞台裏4月24日号にはフレッド・ブラッシーが取り上げられている。1983年の映画『My Breakfast with Blassie』はカルト作品で、公開当時はDVDはおろか、VHSのビデオデッキすら普及してなかったため、プロレス関係者はウディ・アレンがプロットによく使う2本立て名作映画座のタリアとかにかかるのを待つしかなかった。この映画の監督ジョニー・リジェンドの妹リン・マーグリスは、この撮影を通じてアンディのガールフレンドとなり、結婚こそしてないが最後まで同棲していた内縁の妻である。
 アンディが子供の頃からプロレスファンだったことは伝記にもある通り。ニューヨーク州ロングアイランドで育った彼のヒーローは金髪の貴公子バディ・ロジャースであり、一度もキャラを破ることなく演じ続けた点でも、ずっと「バディ・ロジャースのファンだ」と言い続けていた事実がある。
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