[ファイトクラブ]棚橋弘至が新日本プロレス社長に就任! レスラー社長の功罪とは?

[週刊ファイト1月4-11日合併号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼棚橋弘至が新日本プロレス社長に就任! レスラー社長の功罪とは?
 by 安威川敏樹
・プロの経営者が育たない、日本のプロレス界の土壌
・時代の流れに逆らえず、新日本プロレスも『背広組』社長就任
・プロレス界は現役選手が社長となる特殊な世界
・新日本プロレスと日本プロレスリング連盟との関係はどうなる!?


 前回、筆者は本誌で日本プロレスリング連盟の発足について執筆した。その中で「連盟の始動前から心配ばかりすると鬼が笑う」と書いたが、どうやら今年最後にも鬼が笑うことを書かねばならぬようだ。
 そう、本誌の既報どおり、棚橋弘至の新日本プロレス社長就任についてである。新日にとっては2004年に藤波辰爾が社長を辞任して以来、実に19年ぶりのレスラー兼社長の誕生だ。

 新日本プロレスは長年、非レスラー系の社長が運営してきた。特にブシロード傘下になってからは、プロレス氷河期を乗り越えて経営がV字回復したのは記憶に新しいところである。
 そして、日本プロレスリング連盟の創設が発表された途端に、この人事だ。各プロレス・マスコミは棚橋社長就任に概ね好意的な論調だが、日本プロレスリング連盟の時と違って筆者は鬼に笑われようが不安を禁じ得ない。

 この流れは、プロレス界の発展に繋がるのか? あるいは、時代に逆行するのだろうか!?

▼棚橋弘至が新日本プロレス代表取締役社長に就任

棚橋弘至が新日本プロレス代表取締役社長に就任

▼日本プロレスリング連盟が遂に発足! 高まる期待と不安

[ファイトクラブ]日本プロレスリング連盟が遂に発足! 高まる期待と不安

プロの経営者が育たない、日本のプロレス界の土壌

 プロレスラーと社長業という激務を両立させるのは不可能だと断じるつもりはない。大谷翔平だって、最初の頃は投手と打者の二刀流なんて絶対に無理、プロ野球(あるいはメジャー・リーグ)をナメるなと散々叩かれていたが、実際にはメジャーでホームラン王および二桁勝利というベーブ・ルース以来の偉業を成し遂げた。
 それに、ライバル団体であるプロレスリング・ノアの社長は高木三四郎だし(厳密にはノアとDDTプロレスリングを所有する株式会社CyberFightの社長)、全日本プロレスも4年前までは秋山準が社長だったのである。

 そもそも、日本のプロレスの歴史はレスラー兼社長から始まった。力道山が興した日本プロレスがそうだし、その後はアントニオ猪木の新日本プロレスとジャイアント馬場の全日本プロレスがレスラー兼社長、というよりエース兼社長である。
 力道山の死後の日プロも、豊登道春や芳の里淳三が社長を務め、日プロから独立した国際プロレス社長の吉原功も元プロレスラーだった。芳の里や吉原は引退してから社長に就いたが、レスラー出身であることに変わりはない。

 全日本女子プロレスの松永兄弟のように女子プロレスでは非レスラー社長が主流だったが、男子プロレスでは現役もしくは元レスラーが社長を務めるのが当たり前だった。それも、エース・レスラーが社長を兼任するのが普通だったのである。

 その流れが変わったのは、UWF発足からだろうか。新日本プロレスを追われた新間寿氏が第一次UWFを設立、退陣後は浦田昇氏が社長の座に就く。その浦田氏が逮捕されて藤原喜明が社長に就任するが、経営の悪化に伴い新日に吸収される形となった。
 その後、新日から独立して第二次UWFが発足、神新二氏が社長となり、UWFブームを巻き起こしたが、フロントと選手の対立により僅か2年半で崩壊する。結局、日本のプロレスラーは『受け身の取れない背広組(非レスラー)を信用しない』が露呈される結果となった。

▼第二次UWFで神新二社長と対立したエースの前田日明

 もう一つ、忘れてはならないのが第二次UWFブームに沸き返る1990年に設立したSWSだ。大企業のメガネスーパーがプロレス経営に乗り出し、社長はもちろん同社と同じ田中八郎氏。しかし、田中社長はケーフェイを全く知らされず、レスラーとの溝は深まるばかりで社長を退任し、代わって社長となったのはエースの天龍源一郎。そのSWSも2年で消滅した。
 こうして日本のプロレス界には、企業が参入しようとせず、またプロの経営者は育たず、プロレス村の掟を守り通したのである。

時代の流れに逆らえず、新日本プロレスも『背広組』社長就任

 アントニオ猪木が創業した新日本プロレスも、1989年に猪木が参議院議員となったために社長職を退き、坂口征二が新日の社長に就任した。坂口はプロレスを引退して社長業に専念、現役レスラーだった長州力が現場監督を務め、この頃の新日は地上波ゴールデン・タイムから撤退していたとはいえ、ドーム興行で超満員を連発し、最も新日の経営が安定していた時代と言われる。
 猪木時代のように大ブームを巻き起こすことはなかったが、行き当たりばったりの猪木と違い、実直な坂口の経営方針が功を奏したわけだ。

 だが、20世紀の終わりを告げる頃に格闘技ブーム等もあって、新日のみならずプロレス界は氷河期を迎える。
 そんな1999年に新日は坂口から藤波辰爾が社長の座を受け継ぐが、新日創始者たる猪木の言いなりとなる『コンニャク社長』と揶揄され、新日の凋落は止められなかった。とはいえ、藤波以外の誰が社長を務めても、事態は好転しなかっただろう。

 2004年、藤波に代わり草間政一氏が社長に就任、新日初の非レスラー社長となった。しかし、新日内での『背広組』への軋轢は激しく、僅か1年で草間氏は社長の座を追われる。
 その後は猪木にとって義理の息子であるサイモン・ケリー猪木氏が社長となったが、プロレス氷河期を止めることはできなかった。この頃、プロレス界で独り勝ちしていたのはプロレスリング・ノア。エース・レスラーの三沢光晴が社長を務めていた。また、ライバルの全日本プロレスは、新日のエースだった武藤敬司が移籍して社長に就任したのである。

 2005年、経営悪化が続く新日は遂にゲーム会社のユークスに身売り、同社の子会社となった。かつて、メガネスーパーが保有していたSWSがあったとはいえ、老舗プロレス団体である新日本プロレスが他企業の子会社になったことにより、プロレス団体がエース・レスラー社長による『個人商店』ではいられない時代が到来したのだ。
 ユークスが新日を救ったとは言い難かったが、2012年にやはりゲーム会社のブシロードに株式を譲渡、新日は現在まで続くブシロード傘下の子会社となったのである。

 ブシロードが新日の経営危機を回避させたのは前述の通り。新日のオーナーとなった木谷高明氏による経営戦略が、新日のみならずプロレス界を救ったのだ。
 その後も非レスラー社長が新日を経営するが、2023年の最後に棚橋弘至の社長就任が発表される。なぜ、この期に及んでレスラー社長という時代に逆行する人事を行ったのか?

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