侍ジャパンのワールド・ベースボール・クラシック(WBC)優勝により、人気が復活した感のある野球。そんな野球専門誌に、プロレスの写真がデカデカと掲載された。
一体、何があったのか!?
photo by George Napolitano
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▼エリック・クラプトンにとっての武道館と、プロレス格闘技ファン邂逅の場
プロ野球の旬とプロレスの旬が合体
その野球専門誌とは今年の5月22日号の週刊ベースボール。私事で恐縮だが、この号に『安威川敏樹』の名前がある。どのページに載っているのか、興味がある方は探してみてください。
話を元に戻すと、かつて一世を風靡したnWo JAPANの写真が見開き2ページを使って載っているのだ。なぜ週刊ベースボールに nWo JAPANなのか?
それは、蝶野正洋をはじめとするnWo JAPANメンバーと共に、当時は横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)の主力投手だった三浦大輔と、同じく中心打者だった鈴木尚典が写っているからだ。現在の三浦は言わずと知れたベイスターズの監督、鈴木は打撃コーチである。
何しろ週刊ベースボールを発行しているのは、週刊プロレスと同じベースボール・マガジン社なのだから、野球専門誌とはいえプロレスの写真を借りるのは容易い。
時は1998年1月4日、所は東京ドーム。三浦や鈴木にとってはいつもプレーしている場所だが、まさかプロレス・ユニットの一員として登場する日が来るとは思わなかっただろう。
ちなみに、1998年のベイスターズと言えばマシンガン打線が打ちまくり、リードを奪うと最後は“大魔神”佐々木主浩が締めくくり、38年ぶりのリーグ優勝を果たすと共に日本一にも輝いた。つまり、プロ野球の旬とプロレスの旬が合体したわけだ。
元々、本家のnWoはアメリカのWCWから生まれたユニット。それが新日本プロレスにも飛び火した。
と言っても、新日がパクったわけではない。nWoは、新日本プロレスvs.UWFインターナショナルの抗争をヒントにして生まれたユニットだ。つまり、日本の抗争アングルがアメリカに輸出され、それがnWo JAPANとなって日本に上陸した、いわば逆輸入である。当時の新日本プロレスはWCWと業務提携していたので、こうした加工貿易が可能だったのだ。
日米で社会現象となったnWo
WCWでnWoが誕生したのは1996年。元々はライバル団体のWWF(現:WWE)で活躍していたハルク・ホーガン、スコット・ホール、ケビン・ナッシュによって結成された。
この頃のWCWは、WWFが定期放送していた時間帯に『マンデー・ナイトロ』という裏番組をぶつけ、nWoとWCW正規軍の抗争は大人気を博し、WWFの『マンデー・ナイト・ロウ』を視聴率で圧倒した。日本でいえば、新日本プロレスが『ワールドプロレスリング』を放送していた金曜夜8時に全日本プロレスが『ワールドプロレス』という裏番組をブチ込むようなものである。
ちなみに、nWoとは『ニュー・ワールド・オーダー(New World Order)』の略で、元々はプロレスとは全く関係のない言葉だ。
和訳すると『新世界秩序』となり、20世紀末に終結した東西冷戦の後の体制を指す。もっと昔、20世紀初めの第一次世界大戦後にもこの言葉が使われた。
とはいえ、プロレス版nWoはアメリカで社会現象となり、nWo Tシャツはバカ売れ。アメリカでプロレスが認知された証拠だ。
アメリカで最も人気のあるスポーツは言うまでもなくアメリカン・フットボール。1番人気がプロ・フットボールのNFLで2番人気が大学のカレッジ・フットボール、3位と4位をバスケットボールのNBAと野球のMLBが争う構図だが、この時代のプロレスは何とNFLを上回ったのだ。
月曜夜のWCW『ナイトロ』とWWF『ロウ』の合計視聴率が、同時刻に放送されていたNFL中継を上回ったのである。激しく争っていたWCWとWWFが、結果的にはプロレス連合軍となって、アメリカ人が三度のメシよりも好きなアメフトを凌駕してしまったのだ。
日本では、WCWに参加していた蝶野正洋が1996年12月、nWoに加入して、それが新日本プロレスに輸入される。蝶野はスコット・ノートンや天山広吉、ヒロ斎藤らを仲間に引き入れnWo JAPANとして本格的に活動を始めた。
さらにはグレート・ムタ(武藤敬司)も加入、nWo JAPANと新日正規軍との抗争は大人気を博すことになる。
アメリカと同様、nWo Tシャツは飛ぶように売れ、前述のベイスターズの選手のみならず、多くの著名人やプロレス・ファン以外の一般人もnWo Tシャツを着るようになった。
当時は、プロレス定期放送がゴールデン・タイムから撤退して10年ほど経っていたが、ドーム大会では常に超満員、黄金の1980年代とは違ったプロレス人気が健在だったのだ。
▼2020年、nWoがWWE殿堂入り
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20世紀末に最後の輝きを放ったWCWと日本のプロレス
ただ、週刊ベースボールに掲載された1998年の写真、この年が日米のnWoにとって転換期となっていた。反撃に出たWWFは人気回復、84週連続でWCWの『ナイトロ』に負け続けていたWWFの『ロウ』が1998年4月13日に視聴率で上回る。
WCWは対抗策として、nWoをnWoウルフパックとnWoハリウッドに分裂させたが、マンネリ感は否めず退潮に向かっていた。
新日本プロレスのnWo JAPANも、蝶野正洋の負傷欠場もあり、迷走が始まる。武藤敬司がnWo JAPANのリーダーとなったが、翌1999年に復帰した蝶野はnWo JAPANには戻らず、TEAM 2000を結成してnWo JAPANと敵対した。だが、こちらもWCW同様、人気を失っていく。
結局、日米のnWoは2000年に消滅した(2002年にWWFで復活したが、大きなムーブメントにはならず)。
WCWはWWFの逆襲になす術もなく、2001年には遂にライバルのWWFに買収される。nWoの登場によりWWFを圧倒し続けたWCWは、そのWWFによって引導を渡された。
一方、nWo JAPANの爆発的人気によって隆盛を誇った新日本プロレスも、21世紀に入り格闘技ブームに押されっぱなしとなり、新日のみならず日本のプロレス界は氷河期に突入する。WCWと違い消滅しなかったとはいえ、人気はナイアガラの滝のように凋落の一途を辿った。
20世紀末は、WCWと日本のプロレス界が最後の輝きを放った時代だったと言える。その中心がnWoだったことは、記憶に留めておきたい。
何しろ、25年後の野球専門誌に見開き写真が掲載されるほどの大ブームだったのだから。
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