[猪木追悼④]アントニオ猪木とザ・デストロイヤー最後の会食秘話全容

[週刊ファイト10月13日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼[猪木追悼④]アントニオ猪木とザ・デストロイヤー最後の会食秘話全容
 photo & text by 藤井敏之
・ブラジル秘話コーヒー豆⇒落花生⇒サンパウロでのレタス箱⇒力道山
・流暢な英語でデストロイヤー家族に話される姿がカッコ良かった思い出


 2016年9月の末頃、日本にデストロイヤーのご家族が来られるとの連絡を頂いたと同時に、できればデストロイヤーさんもかなりの高齢になられ、そう頻繁に日本に来れなくなると思い、久しぶりにアントニオ猪木さんとの再会を実現できないかとアントニオ猪木の側近であった橋本田鶴子さんに連絡すると、電話口より猪木さんもお会いしたいようなので実現させましょうとの快諾を頂く。ただお二人ともタイトに忙しく日程を合わせるのに一苦労、最終的には、闘道館でデストロイヤーさんのトークショー&撮影会が開催される日の夕刻7時にホテル・オークラで集まる事になる。

 当日は多くのファンが来られトークショー、そしてサイン並びに撮影会を行ってゆくに従い時間が押し始め、会場を出たのが確か6時過ぎであった。その後デストロイヤーさんが宿泊先のホテルで着替えられ、そのホテルを出たのが7時近くになってしまった。
 天下のアントニオ猪木を待たすわけにもいかず、田鶴子さんに連絡し約20分ほど遅刻する旨を伝える。車がホテルに到着したのは7時30分ぐらい、すると田鶴子さんがホテルの入り口で待っていてくださりホテル内に足を進めると、猪木さんはいつもの行きつけのバーの入り口で立ってお待ちくださっていたのだ。猪木さんにとってデストロイヤーはプロレス界の先輩ではある故か、満面の笑顔で二人は抱き合い抱擁しながら既に話に夢中の様子。デストロイヤーさんは息子さんのカートさん、娘さんのクリスさんを紹介してレストランに向かわれた。

 着席されてから談笑はアッという間に1時間30分も経過してしまいましたが、その談話の内容をこの機会に抜粋して記載することとしました。
 最初に私のほうから猪木さんにデストロイヤーさんの一番印象深いことはありますか?と尋ねました。

猪木:報知スポーツが初めて力道山とデストロイヤーの試合写真をリングの上から撮影した写真が今でも印象深いです、それまではリングサイドから撮影していたのを、その日はリング上から撮影しましたよね、そうそう力道山とあなたの最後の試合はどこでしたか?

デスト:12月7日の浜松でした。
 その夜、デストロイヤー、バデイ・オースチン、イリオ・デ・パオロの3人と力道山がシリーズ最終戦の慰労の為か食事を共にされている。デストロイヤーさんは自伝本で東京への帰りの夜行列車内で猪木さんとポーカーを興じている。その翌日に力道山は赤坂のナイトクラブで刺される大事件が起こる。

 次にデストさんが日米親善レスリングの話をされ
デスト:今、私は子供たちにレスリング教室を開き男女の子供たちを指導しているよ。
猪木:小さくても女の子のレスラーは強いですね(笑)。

 その後デストさんは猪木さんについて語りはじめ
デスト:猪木さんはアメリカに来た時からレスリングセンスがあり元々どんな技でも使える強いレスラーでした。私は今でもあなたをグッドレスラーとして見ていますと明言。
 64年9月から翌年の6月まで、オレゴン州ポートランドをデストロイヤーがサーキットした時に二人はタッグを組んで戦っている。
猪木:嬉しそうな笑顔をデストロイヤーに返されました。

2004年4月17日、CACで対面した猪木とホッジ!本当に二人とも嬉しそうでした

 次にカリフラワーアレイクラブの話へと移行
猪木:オールドレスラーがみんな死んでゆくニュースを聞き寂しいものです。
デスト:CACにおいても1年に70人ものレスラーがあの世に行った。
猪木:私の師匠であるバーン・ガニア、パット・オコーナー、キラー・コワルスキーもお亡くなりになった。(ティーチャーのバーン・ガニアと呼称されたのは驚きです)
デスト:私の親友であるドン・マノキャン、レッド・バスチエンも亡くなったよ
猪木:ではCACではあなたが一番年上ですね?
デスト:おそらくそうかもね(笑)。


追悼:ザ・デストロイヤー

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