[ファイトクラブ]追悼 ターザン後藤さん58歳の若さで死去

[週刊ファイト6月9日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼追悼 ターザン後藤58歳の若さで死去
photo & text by 西尾智幸

・5月29日肝臓がんにより死亡していた事が関係者の話で分かる
・晩年は、奥様のラーメン屋で働いていた
・日本で初の有刺鉄線デスマッチを敢行
・J鶴田23回忌興行にて、大仁田厚がコメント&10カウントゴング
・タイトル戦2試合をプレイバック グレゴリー・ベリチェフ&ビッグ・タイトン


 ネットニュースを見る前に、知人からLINEで教えて貰った。「ターザン後藤、残念ですね。僕は馴染みないんですが、マスター(筆者)はショックなんじゃないですか?」という感じで。
 え? 後藤さん、残念?! まさか亡くなったの?? 急いでネットニュースを探す。しっかりと『ターザン後藤さん死去』の文字が…。5月29日、肝臓がんにより死亡していた事が関係者の話で分かった。

 筆者の後藤さんへの思い出を挟みつつ、追悼させて頂きたい。
 後藤さんは、筆者と学年は違えど同じ昭和38年生まれで、まだ58歳。蝶野正洋や川田利明、北尾光司、本田多聞、ライオネス飛鳥ら同級生も多い。
 寿命がどんどん長くなる世の中でも、昭和のレスラーはやはり短命なのか?  まず、ニュースを見て、とても残念で悲しい気持ちになった。

 後藤さんは、中卒で九重部屋に入門し15歳で初土俵を踏むが、短期間で廃業。
 その後、全日本プロレスに入門し、1981年2月に越中詩郎戦でデビュー。
 筆者は当時の印象…というか、会場に足を運んでいたにもかかわらず、正直本名の後藤政二時代の記憶はなく、ターザンになってから、そのいで立ちから少し記憶にあります程度だった。
 そして、1985年に海外へ武者修行に行くも、結局帰国命令が無いまま。女子レスラーのデスピナ・マンタガスと結婚し、一時期はコックをしながら生活していたが、  1989年に大仁田厚の誘いで帰国しFMWへ移籍する。
 その時、筆者は大仁田自身も一旦膝を壊して引退しているし、2番手がターザン後藤ってあの前座に出ていた選手よね? それでどんな団体になるの? イマイチピンとこなかったのだが、旗揚げ2戦目の試合、日本初の有刺鉄線デスマッチ(大仁田&後藤vs.松永光弘&ジェリー・グレイマン)を雑誌等で見て、有刺鉄線なんて漫画の世界だと思っていたので、見てなんじゃこりゃ!? と衝撃を受け、気が付けばその後のシリーズ開幕戦のチケットを買っていた(笑)。
 ただ、この日(1989年12月1日)後藤さんは欠場で、『えー!残念』と思っている自分が既にいた…。そこからFMWにしばらく嵌り出すのだった。

 その後、この試合形式はFMWの定番となり、1990年8月の汐留大会にて、大仁田と史上初のノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチを行い、ここで強烈なインパクトを世間に残した。


▲写真は1992年8月の大阪府立第二での大会より
大仁田&後藤vs.ザ・シーク&タイガー・ジェット・シン&サブゥのハンデ戦

 余談だが、この頃の府立第二は、2階席を開放するほどの客入りだった。理由は不明だが、現在はどの団体も2階は使用していない。

 1995年には突如FMWを離脱した後藤さんは、IWAジャパン、古巣の全日本など多くの団体を渡り歩き、晩年は再婚相手のラーメン屋で働いていた。

 5月31日、後楽園ホールでジャンボ鶴田選手の23回忌興行が行われたが、大仁田は第2試合に出場が決まっていた。
 試合後、後藤さん追悼の10カウントが行われ、奇しくも後藤さんが鶴田さんの付き人であった事、後藤さんの入場曲“汚れた英雄”を聞き、まだまだ出てきそうだと涙ながらに語った。
 また、ツイッターでも『ただただ信じられない』と綴られていた。後輩のほうが先にドンドン逝くのは複雑な心境だろう。

筆者が見たFMW時代の後藤さんの雄姿 タイトルマッチ2試合

 1990年代前半は、過去に何度か書いたが、筆者はメジャーなプロレスにちょっと飽きてきて、FMWとUWFという、言わば従来のプロレスとは離れた団体に興味を持ちだした頃でもあり、案外FMWの会場にも足を運んだ。ただ、写真撮影にも飽きていた時期で、撮影していない大会もあるので、今回は後藤さんの世界マーシャルアーツ選手権を2試合お届けしたいと思う。

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