[ファイトクラブ]追悼”キックの鬼”沢村忠:風船ガムでメダルシール集めた昭和の英雄

[週刊ファイト4月8日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼ 追悼”キックの鬼”沢村忠:風船ガムでメダルシール集めた昭和の英雄
 by タダシ☆タナカ 資料提供 : Takasan

 キックの鬼こと沢村忠の訃報が伝えられた。肺がんで亡くなったのは3月26日、葬儀は近親者のみで30日に執り行われ、マスコミが知ったのは31日のこと。78歳だったとはいえ、昭和のスーパースターにしては扱いが低すぎる。
 だいたいは同じ世代といっても、本誌・藤井敏之記者が『秘蔵写真で綴る浪速のアントニオ猪木』連載で書いておられるように、まずは読売ジャイアンツが1965年(昭和40年)から1973年(昭和48年)まで9年間連続してプロ野球日本シリーズを制覇していたV9時代である。巨人軍選手のサイン会に行ったのみならず、確かに小学校の休み時間の遊びとして四の字固めの痛さを知り、「人間風車だぁ~!」と掛け声かけてプロレスごっこをやったのも同じ。しかし、1歳、2歳とかのわずかな違いや通った学校にもよるのだろうが、筆者を直撃したプロスポーツの最初の英雄は間違いなく沢村忠だった。

 真剣勝負エンタテインメントの元祖としての、日本発祥のプロ格闘技興行キックボクシングは、五木ひろしのマネージャーでもあった野口修プロモーターの発案した和製英語である。タイのムエタイをヒントにした興行を1966年から空手家やボクサーを集めて開催した。
 70年代初期の全盛期にはTBS、日本テレビ、東京12チャンネル(現・テレビ東京)の3局で放映される過熱人気を誇ったが、一方でプロレスの「弟分」との見方もあり、常にその競技性が疑われてきた事実も同様に覚えておかなくてはならない。

 “キックの鬼”沢村忠のブレイクは格闘技のヒーロー誕生といっていいだろう。アマチュア色が濃いボクシングを除けば、いわば最初のプロ格闘家であり、試合中継の視聴率20%台乗せに大きく貢献した。ボクシングはアメリカ産色が濃いが、空手の日本となるとキックの方がスンナリ受け入れられた面がある。プロレスも最高30%台が使われるが、力道山をリアルタイムで見てはいない筆者たちの世代を直撃したのは、ベレー帽の寺内大吉が解説する毎週30分の「TBSキックボクシング」中継の方だ。アニメ『キックの鬼』との相乗効果で絶対王者・沢村の必殺技“真空飛び膝蹴り”は流行語となった。同年齢の安西伸一記者は、「アントニオ猪木vs.ストロング小林からリアルタイムで見ている」というが、筆者に関するならアントニオ猪木よりも沢村忠の方が先だった。小学校の校庭はコブラツイストよりも”真空飛び膝”であり、実戦というかケンカになっても回し蹴りが有効なのを知っていて、見様見真似で咄嗟に使ったのもテレビの影響になる。
 アゴを鍛えるという名目で沢村がCMキャラだったフーセンガムも大ヒット。ちびっ子らは点数を集めてメダルシールをもらうために競って駄菓子屋に駆け込む毎日だった。

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