『ジャイアント馬場23回忌追善興行』開催記念! ロングインタビュー!!

 目前に迫った2・4後楽園『ジャイアント馬場23回忌追善興行』開催を記念して、全日本プロレスの選手だったグレート小鹿大日本プロレス会長、全日本プロレスの現役選手渕正信、かつて新日本プロレスの営業本部長・過激な仕掛け人として全日本プロレスとしのぎを削った新間寿氏、大会プロデューサーである和田京平レフェリー&木原文人リングアナウンサーの公式インタビューが到着したのでお届けする。
(聞き手:新井宏)

■ ジャイアント馬場23回忌追善興行
日時:2月4日(木) 開場17:00 開始18:00
会場:東京水道橋・後楽園ホール

■主 催:株式会社H.J.T.Production
■大会プロデューサー:和田京平名誉レフェリー、木原文人リングアナウンサー
■オープニングゲスト:天龍源一郎
■ゲスト:ザ・グレート・カブキ
■チケット販売所:イープラス https://eplus.jp/baba/

<メインイベント 6人タッグマッチ 60分1本勝負>
武藤敬司(フリー) 諏訪魔(全日本プロレス) 小島聡(新日本プロレス)
 vs.
天山広吉(新日本プロレス) カズ・ハヤシ(GLEAT) 河野真幸(フリー)

<セミファイナル タッグマッチ30分1本勝負>
永田裕志(新日本プロレス) 青柳優馬(全日本プロレス)
 vs.
鈴木みのる(パンクラスMISSION) 佐藤光留(パンクラスMISSION)

<第4試合 ステーキハウス寿楽PRESENTS シングルマッチ30分1本勝負>
BUSHI(新日本プロレス) 
 vs.
青柳亮生(全日本プロレス)

<第3試合 ジャイアント馬場23回忌追善特別試合>
ジャイアント馬場
 vs.
スタン・ハンセン

<第2試合 追善特別試合8人タッグマッチ 30分1本勝負>
渕正信(全日本プロレス) 大仁田厚(フリー) グレート小鹿(大日本プロレス) 越中詩郎(フリー)
 vs.
2代目タイガーマスク(フリー) 大森隆男(全日本プロレス) 井上雅央(フリー) 菊地毅(フリー)

<第1試合 6人タッグマッチ 30分1本勝負>
新崎人生 (みちのくプロレス) 長井満也 (ドラディション)     
 vs.
西村修(フリー) アンディー・ウー(フリー)

◆レフェリー:和田京平、レッドシューズ海野、西永秀一、神林大介
◆リングアナウンサー:木原文人、宮田充、阿部誠
※出場選手はケガ等により変更となる場合が御座いますので、予めご了承下さい。

◎2月4日(木)『ジャイアント馬場23回忌追善興行』開催記念インタビュー vol.1 グレート小鹿 大日本プロレス会長

グレート小鹿

「馬場さんはプロレス道の先生。海外遠征時代、馬場さんがアメリカで有名なら僕も有名になってやろうという気持ちが沸きましたよ」

 1999年1月31日、不世出の大レスラー、ジャイアント馬場さんが61歳で逝去。あれから22年後の今年2月4日、東京・後楽園ホールにて『ジャイアント馬場23回忌追善興行『が開催される。大会には新日本と全日本が協力、馬場さんと縁のあるレスラーが多数参戦する予定だ。なかでも大日本プロレス会長のグレート小鹿は馬場さんに憧れ、海外遠征時代にも馬場さんから多大なる影響を受けたという。2・4後楽園を前に、馬場さんへの思い、馬場さんの全日本入団、全日本と大日本の関係、現在の活動、そして大会への意気込みなどを聞いてみた(聞き手:新井宏)

――2月4日、後楽園ホールにて『ジャイアント馬場23回忌追善興行』がおこなわれます。馬場さんの23回忌を迎えるにあたり、思うことといえばなんでしょうか。
「23回忌か、早いもんだねえ。僕はあの頃、ちょうど仙台で『プロレスちゃんこ小鹿』という店を作ってですね、そこで哀しいニュースがきて、店を休んで葬儀に出た記憶がありますよ。馬場さんとはなんだかんだと、かれこれ30年近くの付き合いだからねえ。いいときも悪いときも、甘いも辛いも同士なもんでね、僕の気持ちには、どっしりと重いものがありますよ。僕が馬場さんをすごいと思ったのは、ワールドリーグ戦でカリプソ・ハリケーンとやった30分1本勝負の引き分け。あれを見て僕は、(馬場さんの)虜になったね。すごい試合だったね」

――当時の小鹿選手は?
「当時の僕は、丸坊主のあんちゃんですよ(笑)」

――新人、若手時代ですね。
「そうそう。20歳で入って、僕が21歳の時だから、1963年くらいですね。相撲から転向して日本プロレスに入門して1年くらい経った頃だねえ。毎年4月にワールドリーグ戦を開催しててね、その中の試合ですよ。その試合ではなんて言うんだろう、度肝を抜かれた。とにかく言葉が出ないくらい驚いた。自分の気持ちを表わすには
『わー!!』
ていう言葉しかないんだよね。やはり、6メートル四方のリングを思い通りに走ってすべての角を使える技のすごさだよね。僕らが入門した頃によく言われたのは、
『リングは四角い、この四角いリングを(うまく)使うヤツがうまくなるぞ、強くなるぞ』
という教えだったんだよね」

――リング全体を使うという意味ですか。
「そうそう。いまの若いヤツはリングを丸く使ってる部分がけっこうあるんだけど、僕はいまでもリングは四角く使いたいと思うし、そう心がけているんですよ」

――隅から隅まですべてを使いこなすと。
「そう。コーナーポストの脇のタッチロープからなにまでを使いこなせと。そういうことを言ってるんだよね」

――そこで極道殺法に活かしたのが小鹿選手?
「いやあ、そうでもないですね(笑)。ただ、僕の場合、プロレスはゼロからのスタートだから。その頃に僕が見たときの馬場さんって、すでに完成に近い人だった。これはもうビックリしたというか、声が出ないんですよね。そういう部分で馬場さんに憧れというのがあったもんで、それからなんだかんだといろいろありましたけどね」

――小鹿選手は海外でも活躍されましたが、馬場さんは先にアメリカに行かれていましたよね。小鹿選手も行かれたアメリカでのビッグ・ババのネームバリューはどうだったのですか。
「馬場さんのネームバリューはもうすごいもんですよ。階段が10段あるとすれば、僕らは1段、2段の下の方。馬場さんは8段目、9段目、もうちょっとで10段目、天井まで届くくらいのネームバリューがありましたよ」

――現地で馬場さんの偉大さを改めて感じたところはありますか。
「そうですね。テネシー州ナッシュビルに行ったときに、ブルーノ・サンマルチノが参戦する試合があったんですね。そのとき、あいさつに行ったら、
『ユー・ジャパニーズ? ババ知ってるか?』
と聞かれて、イエスと答えたんですよ。そこからニューヨークのこととか話してもらったりしてね、メインイベントに出る人から話をしてもらって、うれしかったですよ」

――海外に出て間もない選手が、現地でトップの選手から教えてもらうなんて、感激ですよね。
「そうですよ。ニューヨークで、専門誌に馬場さんの写真が載ってるのを見せてもらいましたよ。ロサンゼルス、ニューヨーク、シカゴなど全部メインイベントですからね。それで日本に帰ってきたんだからすごかった。もう言い表せないくらいの選手ですよね」

――馬場さんが試合をしていたアメリカで小鹿選手も試合をし、より憧れの気持ちが大きくなったのでしょうか。目標にもなりましたか。あるいはライバル心、対抗心が芽生えたとか。
「腹の中では馬場さんがアメリカでニューヨークで有名なら、俺も有名になってやろうという気持ちは沸きましたよ。でも、ライバル心とかはありませんよ。あまりにも偉大すぎてね。ただ目標にはなりましたね、同じ日本人としてね。他国で同じリングで闘う。そういう部分で目標にはなりましたよね」

――馬場さんは現地ではヒール、悪役でしたよね。
「僕は見ていないけど、ほとんど悪役です(笑)」

――小鹿選手も馬場さんの悪役姿に追随したところはあるのですか。東洋人だとどうしても悪役にならざるをえない時代でもありましたが。
「追随したわけでもないけれども、自然とそうなりましたよね。ただ、馬場さんにはマネジャーが付いていて、英語を話せない日本人を悪役としてものすごく煽っていく。
『コイツ(馬場)だったらアメリカのレスラーなんか簡単だ! 』
みたいなことを英語でまくし立てる。そういう意味ではいいマネジャーもついただろうし、それが悪いこともあったかもしれないし。だけどまあ、馬場さん自身は日本よりアメリカの方が好きだったんじゃないかと思うよ(笑)」

――自由にできた、とか?
「そうねえ」

――小鹿選手が帰国後、日本プロレスがなくなってから馬場さんが設立した全日本プロレスに参戦します。全日本を選んだ理由は?
「日本プロレスから猪木さんが東京プロレス、新日本プロレスを作って独立したと。馬場さんも独立したと。それで僕たちは日本プロレス残党と言われたんですね。まあ、僕には馬場さんへの憧れがあったし、日本プロレスそのものが馬場さんを第一人者として認めて推していた。当時は選手一同、社員も馬場一辺倒だったわけだね。猪木さんが出ていった後でも日本プロレスをもり立て頑張ってくれた。猪木さんは先に出ちゃったから、僕は馬場さんの方に行く状態だったんですよ」

――全日本では大熊元司選手との極道コンビで人気がありましたが、全日本で闘ってきた中での馬場さんはいかがでしたか。全日本に入ってからの小鹿選手は、馬場さんをどう見ていましたか。
「僕は馬場さんって洋風でもあり和風でもあったと思っているんだよね。アメリカで苦労していたことも活かして、アメリカンスタイルのいいところを日本に取り入れた。それが、全日本プロレスってことじゃないかと思う」

――NWAという権威を輸入したこともありますか。海外から大物外国人レスラーを招聘する。
「そうだね。外国人レスラーが洋風であり、それを日本流にアレンジしたのが全日本プロレスですよ」

――極道コンビで一世を風靡した小鹿選手のスタイルも、海外でのファイトスタイルを日本に持ち込んだものでもありますよね。
「いやあ、アメリカに4年間行ってたキャリアはあるけど、馬場さんには足下にも及びませんよ(笑)。1972年かな、テキサス州のアマリロに行ったとき、ファンク一族のところに行ったんだよね。ファンク一家と全日本は切っても切れないつながりがあったものでね。そこであらためて馬場さんとファンク一家の強い絆がわかりましたよ。そこに僕を出すということは、信用してもらっていたのかなと思いましたね」

――94年12月に大日本プロレスを設立する小鹿選手ですが、新団体旗揚げについて馬場さんとお話はされましたか。
「しなかったです、ハイ。僕はねえ、最初から団体を作る思いはゼロだったんです。僕は別の世界で頑張ろうと思ってたんですよ。メガネスーパーがSWS作ったんだけど数年で終わっちゃったでしょ。その後いくつかの団体に枝分かれする。そこから日本プロレスの後輩だったケンドー・ナガサキ(桜田一男)選手と会うんですよ」

――NOW、ですか。
「そう、NOW。彼に相談されたのが、大日本のスタートなんですよ」

――なるほど。小鹿選手は大日本の社長になられるのですが、全日本を参考にしたところ、全日本での経験を活かしたところはありますか。
「僕自身は、全日本の選手会長みたいなことをしていたからね。選手間のとりまとめとか、団体をよくしなくちゃいけないって意気に感じてたから、そういう役職、立場だった。なので、大日本でも選手間のそういうのをしなきゃいけないと思いましたよ。そういうところでは経験を活かしましたね。団体を立ち上げたときに選手が3人しかいなかった。あとはフリーの選手だから、何をされるかわからない。そこのところはキツかったですよ。それでも、全日本時代の自分の立場が(大日本の)基礎になってる部分があると思いますね」

――大日本プロレスを旗揚げするにあたり、全日本への対抗心はあったのでしょうか。
「ライバル心はありません。だってあの頃は新日本、全日本の天下でしょ。とにかくあの頃は、タケノコのように団体がいっぱいできた時代じゃないですか」

――インディーが次々と旗揚げしました。
「新日本、全日本は横に置いておいて、この中(インディー)で一番になるにはどうするかと、どうしたらいいかということですね」

――まずは新しく出てきた団体の中で一番になる?
「そう、一番になる。それがやがては新日本、全日本に追いつくクッションだと思ってましたね」

――大日本プロレスと名付けたのは、全日本の「全」を上回るとの思いで、「大」にしたのでしょうか。
「それね、僕が1967年アメリカに行ったときに漢字で“大日本”と書かれた法被を着てるんですよ。それは偶然だけども、僕が会社を作るときに思ったのは、猪木さんが新日本、馬場さんが全日本、だったらあとはなにがあるんだと。じゃあ、日本を大きく、新日本、全日本を追い越すぞという意味で、大日本にしたんですよ」

――ネーミングでは最初から一番を狙ったんですね。
「ハイ。自分の昔の写真を見ると漢字で大日本と書かれた法被を着てるんですよね。1967年、68年、69年くらいにアメリカでね」

――小鹿選手は現在もリングに上がるだけでなく、ベルトも獲得しています。最年長でベルトを取るという新しい価値観を生み出しているような気がします。
「僕らの時代、アメリカに行ってそこのトップを取るには、ベルトに関わっていなければいけないんですよ。そうでなければメインイベントを取れない。いまもそれと一緒ですよ。たとえば大日本にいてもベルトに届くところにいない、何回やっても取れない。だったらどうしようかと。それでたまたま僕の知り合いが新潟プロレスというのがありますよと教えてくれた。そこから自分のいられる場所はどこかと考えたときに、ベルト取らなきゃいる価値がないなというので、年齢は考えずやってやろうと。向上心がなかったら人生やめてますよ(笑)」

――リングに上がる以上、その団体のベルトを狙うと。
「そうですね。ベルトを狙う、イコール、メインイベントです」

――馬場さんは生涯現役でしたが、小鹿選手はベルトを狙いながら生涯現役でやっていく。現役でいる限りベルトを狙うと。
「ハイ。馬場さんと僕の違いね。馬場さんは、言い方は悪いけど金をよく稼いだから一歩下がって隠居し、若い者を一歩下がったところから見るというスタイルだったじゃないですか。僕は金もないし、貧乏団体なので、僕が一緒にいて稼ぎながら上を狙うと。他団体に上がってそこのトップ、ベルトを狙う。そこが違いね」

――小鹿さんは生涯現役という点で馬場さんの後を追いながらも、別の価値観を生み出しているようです。
「そうですね。僕は5年前にNPO法人(「資源を増やす木を植えましょう」)を作ったんですね(小鹿は特定非営利活動法人「資源を増やす木を植えましょう」理事長)。僕は力道山先生の最後の弟子で、日本プロレスの保守本流と言ったら大日本なんです。猪木さん、馬場さんが分家しちゃったからね。力道山先生はプロレスという文化をどのように思ってきたのか。プロレス文化を末まで残そうと思ってやっていたと思いますよ。その部分でプロレス文化を僕や後輩、日本人としてどのように受け継いでいくかという宿題をもらったと思っているんですよ。日本にプロレスという文化を力道山先生が持ってきたとき、63、64年くらい前だけども、社会貢献をしなければプロレスを応援してくれる人はだんだん少なくなると思うんですよ。そういう危機感を憶えたわけ。  それで僕は試合会場に行って募金箱を持って、リングからお願いしている。20年、30年すれば世界の人口が倍になり、一方で日本は半分になると。そうなると日本全国で誰もいない町や村がたくさん出てくるわけですよ。そういうところに募金で集まったお金で苗木を買って、地域の人たちのために植えて歩こうと。人がいなくても木は大きくなる。きれいな水が海に行く。海でプランクトンになるんです。プランクトンを食べるのは魚。好循環が生まれるでしょ。誰もいない村、町なのに魚が泳いでるぞと。そこに小屋を建てて、魚を取る人がそこに寄って一つの塊になるじゃないですか。それが日本の再現。そういうのを僕らの後輩に残してやりたいと思って、僕は木を植えてるんですね。ただし、私の私有地には植えません。なぜなら、みんなから預かったお金で苗木を買ってるから。私有地に植えたら私物になってしまう。そういうのではなく、みんなのものだと。学校とか幼稚園とかでも記念樹を植えてます。プロレス界には社会貢献というものをもっとやってほしい。プロレス団体を名乗るなら社会貢献しなさいと。ただこれは個人の自由だからねえ。俺が言っても本人が横向いたら実現しないです(笑)。ただ、こういう人間がプロレス界にいると思ってもらえれば、僕は幸せですよ」

――なるほど。ところで、2・4追善興行では小鹿選手は8人タッグマッチに出場します。渕正信&大仁田厚&グレート小鹿&越中詩郎組vs.2代目タイガーマスク(フリー)&大森隆男&井上雅央&菊地毅組。このカードでは何を見せたいですか。
「僕と僕のパートナーというのは、馬場さん直接の教えを受けた、馬場さんに憧れた人間たちですからね。相手の4人は僕にはあまりわからない部分がある。それでも馬場さんの教えを受けた選手たちでしょ。全日本に対する愛情が大きい者、キャリアの長い者が僕らの仲間であって、相手チームは僕らからしたら新人みたいなものだと。馬場さんから教わったことを先輩から後輩に教えてやるような試合をしたいと思うね。井上選手も馬場さんの弟子だろうけども、僕らのキャリアからしたら全然違うから。僕からすれば若い衆っていうのかな、やはり後輩たちだよね。先輩が後輩にいっちょ胸貸してやろうという感じだね(笑)」

――では最後に、小鹿選手にとってジャイアント馬場さんとは?
「僕はこのプロレス界に57年もいるんだけども、やはり馬場さんはプロレスの道、プロレス道の先生ですよね。リングの中の見本でもあるし、また、団体を作った見本。プロレス道の中で馬場さんは俺の先輩、憧れの存在。プロレス入りしたときからいままで、絶対に欠かせない存在ですね」

 78歳でもますます意気盛ん。いや、小鹿に関しては、年齢について延べることはもはや野暮というものだろう。この体力と気力こそ、プロレスラーの鏡ではないか。リング内外でのアグレッシブな活動には、馬場さんへの思いがモチベーションになっていることは間違いない。馬場さんが第一線を退いてからは「楽しいプロレス」で独自のポジションを築いたが、小鹿は大日本で一歩退きながらも他団体でベルトを狙うという新しい価値観でユニークなポジションを築いてみせた。馬場さんの後継者であり開拓者。そんな印象を残した今回のインタビュー。2・4追善興行を含め、今後も小鹿の動向から目が離せない。

◎2月4日(木)「ジャイアント馬場23回忌追善興行」開催記念インタビュー[vol.2]渕正信】
「三回忌興行を成功させ、もう一年、もう一年でやってきた。いまは自然体で試合ができるんですよ」

渕正信

 渕正信は、現在も現役としてリングに上がり続け、しかもかつての馬場さんのようなポジションで全日本のファンを沸かせているのである。2・4後楽園では全日本出身のベテラン選手が集う8人タッグマッチに登場。試合への意気込みを含め、馬場全日本時代の思い出などを聞いてみた。そして、「グー」か「パー」かの秘密まで!?(聞き手:新井宏)

――2月4日、後楽園ホールで馬場さんの23回忌追善興行が開催されます。馬場さんの23回忌と聞いて、いかがでしょうか。
「そうですね、ありふれた言葉で申し訳ないけど、長いような短いような。ねえ。まず馬場さんが亡くなったとき、僕は45歳で、いま67歳。とうの昔に馬場さんの亡くなった年齢を越えていますからね。1998年の1月23日には後楽園で馬場さんの還暦試合(馬場&三沢光晴&マウナケア・モスマン組vs.川田利明&小橋建太&渕組)で相手をさせてもらえたんだけども、それからホントにまるまる23年。なんというか、いまそうやって聞かれると、あらためて馬場さんのいない全日本で、よくこうして生きながらえてきたなと。馬場さん、還暦の試合のちょうど一年後に亡くなったんですよね。99年の1月31日でした」

――渕選手は日本プロレスの馬場さんに憧れてレスラーを目指したとのことですが。
「僕らのときはね、日本プロレスのエースが馬場さんだったんですよね。猪木さんは東京プロレスにいって、日本プロレスに復帰した。馬場さんは豊登さんの後を継いで日本プロレスのエースだったんですよ。僕は、馬場さんのファンだったんです」

――日プロがなくなってしまったので、入門は全日本でした。そのときに初めて馬場さんと会ったのでしょうか。
「会いましたね。それが初めて。昭和48年(73年)の3月ですね。感激しましたよ。焦って早口であいさつしたのを憶えてますよ。馬場さんは悠然と構えて、
『そうかそうか』
って感じで聞いてて、笑って応対してくれましたね」

――入門してすぐにデビューできたんですよね。
「僕はね、全日本に2回入ったんですよ。1回目が昭和48年(73年)3月でしょ。一年おいて昭和49年(74年)4月にまた入ったんです。父親の病気でね、一回、北九州の地元に帰ったんです。それでまた戻ってからは、早くデビューができたんですね。一回目の(入門した)ときにはバトルロイヤルがあって、急きょリングシューズもなにもなく裸足で出たのは憶えてますけど、翌年に戻ってからだいたい2週間くらいでデビューしましたね」

――バトルロイヤルがデビュー前のプレデビュー的な感じですね。
「シングルじゃなく、バトルロイヤルですからね」

――本格デビューが昭和49年(74年)4月22日、大仁田厚選手とのシングルですね。
「そうです」

――一度地元に戻ってから、あらためてデビューを果たしていかがでしたか。
「夢がかなったということですよね。自分のヒーローだった人の団体に入れて、入門テストも受けましたし、やっとデビューできて、そこから新弟子ですよね。雑用もあるし。まあ、そのときにはいろんな理由があるんですけど、一回やめた人間がまた戻ってきた。だったらここでやってやろうと、そしていずれはチャンピオンになるんだ、くらいな思いがありました。練習とか試合とかきつかったけれども、まあ若いからね、やはり青春真っ只中。ホントに希望に満ちた感じでやってましたね」

――それ以後のキャリアで、渕選手は何度も世界ジュニアのベルトを奪取しました。
「まあ、入門してから10年以上経ってからの話ですけどね(笑)」

――通算で5度の世界ジュニアヘビー級王者。全日ジュニアのトップとして活躍しました。
「アメリカ遠征行ったあとだし、その頃にはもうある程度キャリアも積んでましたけどね。とにかく当時は、いろんな選手とけっこうやってましたよね。けっこう自信を持っていた時期でしたよ」

――外国人選手も豊富で、新日本にいたジャパンプロレスの選手も全日本のリングに上がりましたよね。
「そうそう、そういう選手も来ましたからね。日本人、外国人関係なしに試合してた。ホントにきついなかでもやりがいがあって、こんな言い方していいのかわからないけど、ホントに楽しい期間でした。お客さんも熱狂してましたしね」

――すごい時代でしたよね。
「そうでしたねえ」

――その後、渕選手は悪役商会とファミリー軍団の楽しい抗争にも加わるようになりますけども。
「アハハハ」

――馬場さんは一線から一歩引いて楽しいプロレスの方にスライドしていきました。そこで渕選手は、馬場さんとも闘いましたよね。
「そうですね。いまでも憶えてますよ。たとえば、89年の5月、後楽園での6人タッグであたったんですよ。そのときに馬場さんに腕を極められてねえ。アームバーを極められたんだけども、そういえばよくこの技をデストロイヤーが食ってたなあとかね、不謹慎ながらもやられながらも思い出すわけ。そしたら脚の力がまだまだ強かったからグイグイと脚から締め付けられて、腕を伸ばされちゃうんですよ。試合をしているんだけど、ヘンな感激がありましたね(笑)」

――痛みを感じながらも感激していたと。
「レスラー特有の不思議な感情でしょうね」

――憧れた選手に技をかけられるのは、けっこううれしかったりするものらしいですね。
「そうです(笑)」

――「明るく激しく楽しいプロレス」が全日本のキャッチフレーズでした。
「そのときはまだ僕もチャンピオンだったんですね。ジュニアの防衛戦をやりながらファミリー軍団の試合をしたり。なおかつ、グングンと若い選手が伸びてきて、三沢とか川田とか伸びてきた時代。彼らとも試合をやったんですよねえ」

――当時の渕選手は全方向(の闘い)でしたね。
「いまじゃ無理だけど、ホントによくやったなって感じますね。一番やりがいのある時期だったなあ。馬場さんも僕らと(大会)真ん中の試合で中心に入ってきたし。だから、今日は馬場さんとかとか、今日は三沢たちとメインでやるんだとか、という感じでやりながら(控え室では)鶴田さんと2人でタオルを引っ張り合って一緒にウォーミングアップしたりしてましたね」

――その時代の渕選手は、全日本の全方位を網羅していたことになりますね。
「30歳代半ばから40歳になろうというころ。このときが全盛期だったんでしょうね」

――その時代を経て、いまもなお現役というのがすごいなと思います。
「いまと昔じゃ試合数が全然違いますよ(笑)。当時は旅(巡業)で年間150試合くらいあったり、テレビ中継もありましたからね。全試合に出てましたし。ホントにあっちこっち行って、当たり前のことだけど若い選手も遠慮しないでガンガンきますからね。身体の痛みをおぼえながらバスに揺られて次の会場に行く。そこでまた試合やってということで、やってきました。それに比べたらいまはね、去年なんか年間で10試合ちょっとかなあ」

――昨年から新型コロナウイルス禍ですからね。
「昨年はねえ(試合数が減った)。だから2月4日の試合が今年の初試合ですよ」

――そうなりますか!?
「そうです。全日本は1月2日、3日って後楽園で恒例の試合なんですけど、僕、初めて休みしましたから。でも、逆に言ったら、ウチの会社がレスラーの身体を考えてくれていると」

――なるほど。ところで、馬場さんが亡くなってから全日が何度もピンチに見舞われながらも渕選手は残留、そのたびに団体を守り続けているわけですが。全日本にこだわる理由は?
「僕ひとりじゃなくて、まわりがいたから守れたんでしょうね」

――選手がほとんどいなくなった時期もありますが。
「まあ、(馬場夫人の)元子さんが馬場さんの三回忌をやりたいと言っていたこともあってね、そこまではやろうと。そう思ってやってましたよ。元子さんは、どうしても全日本で三回忌をやりたいと。馬場さんが亡くなったのが99年1月ですから、2001年の東京ドームが三回忌。スタン・ハンセンが引退したときね。だからそれまでは頑張ってやろうという目標がありました。確か前日には雪が降ったんだけども、ファンの人がたくさん来てくれてね。そういう思いでみんながやってね、三回忌興行が一応の成功をおさめた。そうこうしているうちに武藤敬司が全日本に興味を持ってくれて、その後、彼が社長となった。三回忌が終わったら潰れてもしょうがないような雰囲気があったんだけれども、そこでまた新たな感じでハンセンがPWFの会長になって、じゃあもうちょっとやってみようかということになったんです。そこから一年やって、そしてまたもう一年やってみようかとの話になって。なんだかんだいろいろありましたけども、不思議なもんですね」

――その積み重ねで現在の全日本があると。
「そうですねえ、奇跡かもしれないですね」

――「全日本が消滅したら引退する」とのコメントを読んだことがあるのですが。
「かっこよく言わせられたのかな(笑)」

――ただ、裏を返せば「消滅しなければ引退しない」と受け取れます。
「そうそう(笑)。それはそれでまわりに迷惑かけちゃうけど(笑)」

――生涯現役、でしょうか?
「いやあ、それはなかなか。若い人も伸びてきてるし」

――渕選手のファイトをまだまだずっと見ていたいという気持ちのファンが多いと思いますよ。
「同じような試合ばかりで逆に申し訳ない(笑)」

――渕選手のファイトが全日本の伝統にもなっていると思います。それを見ないと全日本を見た気にならない、というファンも多いでしょう。
「いやあ(笑)」

――ファイトスタイルのスライドも含め、生涯現役という点では渕選手がジュニアで馬場さんを継いでいるのかなという気もします。
「でもまあ、いまは馬場さんの試合を知らない年代の人が頑張ってくれてるし、馬場さんが亡くなって22年でしょ、元子さんが亡くなってもうすぐ3年になりますよね。鶴田さんも三沢君もいないし。そういったなかで全日本をまだまだやっていくうちに、年寄りの俺が考えている以上にいまの中枢の人がしっかりやってくれてるから、そういうところではすごく安心しているんですよ。だからこうやって、自分の都合のいいときに気楽にリングに上がっているという(笑)。ホントに気楽なもんで、ヘンな力みがいまはないんですよね、おかげさまで、自然体でできるんですよ。そんな感じで、リングに上がってます」

――自然体で気負わない渕選手だからこそ、現在の楽しい試合がファンにも受け入れられているのだと思います。さて、2・4後楽園ですが、渕選手は8人タッグマッチに出場します(インタビュー後に百田光雄の欠場が発表されカードが変更。変更カード…渕&大仁田&グレート小鹿&越中詩郎組vs.2代目タイガーマスク&大森隆男&井上雅央&菊地毅組)。全日本にいた8人です。
「相手はやりづらいだろうねえ」

――相手がやりづらい?
「アハハハ。百田さん以外はみんな後輩だしさ、こっちには小鹿さんがいるし、大仁田も越中もいるしさ、ほとんど先輩でしょ。だからまあ、先輩づらしてけっこうこっちはマイペースでいくと思うから、逆に対戦相手がどう対応するかですよ。アハハハ」

――渕選手のチームは好き勝手にやると?
「アハハハ。ファンの人はどう見るだろうな? けっこう古くからのファンも来ると思うんだよね。俺たちの試合を見て、甘い考えかもしれないけど、懐かしんでくれたら」

――古くから全日本を観てきたファンにはこれだけ揃うんですから。うれしいカードですよ。入場からリングに立つだけでもうれしくなる。
「みんな元気っていうのがうれしいですね。それがなによりうれしいです」

――ところで、ふだんの試合で渕選手はヘッドロックから頭部を拳で殴っていくじゃないですか。あれはグー(パンチ)ですか、それともパー(掌底)ですか。

「…どう言ったらいいんだろう?やっぱり殴ってるときは…グーだろうなあ(笑)。こっちの拳が痛いときがあるからね。ただ、これも長いキャリアのあれで、レフェリーが見てるときはパーでやってる。まあ、パーだと言ってくれるお客さんに助けられてますね(笑)。でも、いまここであえて言うなら相手にダメージを与えるためにやってるんですよ。伝統を守ってるというか。それは、一番参考にしたのがザ・デストロイヤーなんですよ。レフェリーに注意されると、これ(掌底)やったんだと主張する。それが印象に残ってるの。あのときはもう日本側で、これ(グー)で殴ってもこれ(パー)って言うよねと。デストロイヤーは
『俺は常にこれ(掌底)でやってるんだ。平手なんだ』
と、しらきってさあ(笑)。そう考えると、俺はまだまだデストロイヤーの域までいってないね、正直に(グーだと)言っちゃったから(笑)。以前、デストロイヤーには教えてもらいました。
『鼻を狙っちゃダメだ、頭をやれ』
と言われましたよ。頭をやっても硬いからね、たまに拳を痛めることもあるんだよね。
『だからそこを注意しろ』
と。じゃあやっぱりグーでやってんじゃないかって、ツッコミを入れたことあるね(笑)」

 旗揚げ2年目に最初の入門、デビューからもうすぐ47年という渕は全日本の歴史、そのほとんどを目撃、体感してきた。しかもジュニアヘビー級戦線を中心に、内外問わずあらゆるタイプの選手と対戦、スタイルにも柔軟に対応してきた。さらには無償の全日本愛で団体のピンチを幾度となく救ってみせた。そして現在は、かつての馬場さんがおこなっていたような楽しいプロレスで全日本らしさを全身から醸し出している。会場人気もまだまだ高い。それだけに、馬場さんの追善興行には欠かせない存在なのだ。2・4後楽園で渕が名を連ねる8人タッグマッチは、“ジャイアント馬場vs.スタン・ハンセン”と並び「ジャイアント馬場23回忌追善特別試合」と銘打たれている。特別な試合ではあるけれど、リングに立つのは自然体の渕だろう。いつも通りに全日本の渕正信を表現する、その姿がファンにはたまらなく誇らしい。

◎2月4日(木)『ジャイアント馬場23回忌追善興行」開催記念インタビュー[vol.3] 猪木・新日本の“過激な仕掛け人”新間寿】

「馬場さんの全日本旗揚げで、こんないいライバルはいないと思った」
「S・ハンセンと死にもの狂いで闘った馬場さん。年間ベストバウトを取られて、悔しいなんてもんじゃなかったよ!」

新間寿氏

 全日本プロレスと新日本プロレスが協力し、2月4日(木)東京・後楽園ホールにて開催される『ジャイアント馬場23回忌追善興行』。
 馬場さんの生前、両団体は激しい興行戦争を繰り広げていた。新日本でアントニオ猪木の右腕として全日本を挑発していたのが営業本部長の新間寿である。76年6月にモハメド・アリとの世紀の異種格闘技戦を実現させた新間は81年5月、全日本の看板ヒールであるアブドーラ・ザ・ブッチャーを引き抜き、ファンをアッと言わせた。
 しかし、2ヵ月後にはタイガー・ジェット・シンが新日本から全日本に戦場を移す。さらには年末の全日本「世界最強タッグ決定リーグ戦」蔵前国技館に突如として新日本のエース外国人選手、スタン・ハンセンが出現。新日本から全日本への電撃移籍が発覚し、引き抜き合戦はクライマックスを迎えた。この戦争における中心人物こそが、新間である。打倒・馬場で日本マット界の話題を提供し続けた過激な仕掛け人が、引き抜き合戦と馬場さんを語る。(聞き手:新井宏)

――まずお聞きしたいのは、馬場さんが72年10月に全日本プロレスを旗揚げします。その前、3月に新日本プロレスが旗揚げしていました。当時から新間さんは新日本に関わっていらっしゃいましたが、全日本が旗揚げされたとき、馬場さんの団体ができるということでどんな気持ちになったか、おぼえていらっしゃいますか。
「おぼえてますよ。僕は新日本プロレスというのを無人島に船が難破して生き残った人間たちにたとえてる。無人島では、水や食べ物は自然から取る。しかし、このままここにいてもダメだと。我々は新しい船出をして人間世界に戻ろうと。そこで木を倒したり竹藪から竹を持ってきて、まずはイカダ作りから始める。それを作る人間たちや、食料集めるグループがいる。新天地を求めていろいろやるのが新日本だった。ところが馬場さんの旗揚げといったら、会社もいいところに用意し、テレビ放送もついている。だから、全日本を例えれば、豪華客船なんですよ」

――全日本という豪華客船がいきなり目の前に現われたと。
「そう。豪華客船の馬場ファミリーが(マット界に)乗り込んできて、悠々と世界一周旅行をしているんだ」

――世界とはNWAとか?
「そうだね。我々は無人島で、全日本は世界一周する豪華客船だった。生きる道を見つけようと船出した新日本と、馬場さんの全日本の船出とは、それだけ大きな違いがあったわけですよ」

――全日本は後発でありながら?
「そう。選手たちにしたって馬場さんサイドの方が世界から超一流の人たちが来た。じゃあ、新日本の旗揚げはどうだったか。豊登さんがいなかったら、観客は集まらなかっただろう。旗揚げの頃は、豊登という人がいたから観客が集まってきたんだよね」

――そのときはまだ猪木さんは看板にはならなかったと。
「難しかった。でもその後、いろんなことがあって猪木さんは知名度を上げていった。だけれども、まだまだ馬場さんの船出する体勢とはまったくの段違い。片方は会社乗っ取りの汚名を着せられたくらいだからね。もうホントに一から立て直さなければいけなかった。だったら、よーし、絶対に全日本に負けるかと、こんないいライバルいないじゃないかと思ったよ。そういう思いがあったし、馬場さんがいたからこそ、全日本があったからこそ、新日本があったんだよね」

――そこで新日本vs.全日本の図式ができあがります。新日本としては、まずは猪木さんの知名度を上げていく戦略ですか。
「そうです。異種格闘技戦とかね、馬場さんがやらないことをする」

――その先に、外国人レスラーの引き抜き合戦が勃発します。アブドーラ・ザ・ブッチャー(全日本⇒新日本)、タイガー・ジェット・シン(新日本→全日本)、スタン・ハンセン(新日本→全日本)らが移籍しますよね。2月4日の「ジャイアント馬場23回忌追善興行」では特別試合として「ジャイアント馬場vs.スタン・ハンセン」の映像が流されますが、ハンセンが全日本に移籍したことについて、新間さんはどのように感じられましたか。
「ショックだった。ものすごいショックだった」

――新日本が仕掛けた引き抜きへの報復ですよね。
「そう。馬場さん、やるときはやるんだな、やられたと思ってね。だけど、ハンセンは違約金をちゃんと送ってきたんだよ。リングのなかは別にして、彼ほどの人格者はいなかったね。リングの外に出て紳士だった超一流の選手の名前を、私は2人だけ挙げることができる。スタン・ハンセンとフレッド・ブラッシーですよ。この2人は私が知り合ったなかで最高の人格者だった」

――ハンセンは81年12月13日、全日本の「世界最強タッグ決定リーグ戦」、最終戦の蔵前でブルーザー・ブロディのセコンドにつき、テリー・ファンクに場外でラリアットをぶち込み電撃移籍。蔵前に現われた試合はテレビなどでご覧になりましたか。
「見なかった」

――それは、あえて見なかった?
「あえて見なかった、うん。馬場さんがどういう試合をするかはわからないけれども、ハンセンが全日本に行ったって、猪木vs.ハンセンみたいな試合はできないという自負が私にはあった。猪木さんというのはそれほど素晴らしいレスラーだったからね」

――馬場vs.ハンセンは、年が明けて82年2月4日の東京体育館で実現しました。その試合をご覧になったことはありますか。
「見なかった」

――それも、あえて?
「うん」

――カードが発表されたときも、猪木vs.ハンセンには及ばないだろうなという考えでしたか。
「変わらない、うん」

――ただ、この試合は年間ベストバウトを取りました。
「そうだ。それでも、私が引き抜いたブッチャーと猪木は噛み合わなかったでしょ」

アブドーラ・ザ・ブッチャー(左)と新間寿氏(右)

――新間さんが引き抜いたブッチャーは猪木さんとはいい試合にならなかった?
「噛み合わなかった。なんであんなに噛み合わなかったのかわからない(苦笑)。ホントに噛み合わなかったよね。だからこそハンセンというのはホントにすごいなと思ったね。馬場さんもすごかった。だってハンセンとやって東京スポーツの82年度の最高試合賞を取ったんだからね。馬場さんもホントに力を入れたんだなあと。死にもの狂いでハンセン戦をやったんだろうなあと、そのとき思ったよ」

――その頃はちょうど、前年4月にデビューした(初代)タイガーマスクがダイナマイト・キッドを破り、WWFジュニアヘビー級王者になったあとでした。82年は新日本が大ブームとなった年ですよね。だけれども、ベストバウトは馬場さんに持っていかれた。新間さんとしては、悔しかったのではないですか。
「悔しいなんてもんじゃなかったよね! 」

――馬場vs.ハンセンの試合映像はまだご覧になっていないですか。
「まだ見てない(笑)」

――ということは、2月4日後楽園でご覧になりますか。
「ああ、見たいね! 是非、見たい。ハンセンで一番思い出に残ることは、小切手で違約金を払ってくれた人格者であると同時に、後輩ハルク・ホーガンへの思いだよね。当時、WWFのビンス・マクマホン(シニア)がハルク・ホーガンをこれから日本に送り込むから彼の知名度を上げてやりたいと言っていたんだ。そして、日本にハンセンとホーガンが揃って来たときに、ホーガンが私を呼んで
『アックスボンバーという技を使いたい』
と。それはどういう技かと聞いたら、
『ハンセンのウエスタンラリアートだ』
と言うじゃない」

――ほぼ同型ですね。
「そう。ラリアートは腕を伸ばす。が、アックスボンバーは肘を曲げる。これだけの違いだとホーガンが説明したんだ。それで『ミスター新間の方からハンセンに断ってくれないか、ハンセンに聞いてくれ』
と言うんだよ」

ホーガン(左)と新間寿氏(右)

――自分からは言いにくいと?
「そう。そこでまずビンスに聞いてみたんだけど、
『お前から聞いていい、スタンは、ハルクのことが好きだからな』
とね。
『ハルクは絶対にいい選手になると言ってるから、それくらいのことならスタンはすぐにOKしてくれるぞ』
と。どこの体育館だったかな、2人が同時に来日していたシリーズのある体育館で、ハンセンに話したんだ。ハルクがラリアートを使いたがってると。そしたらハンセンは
『構わないよ』
と。それですぐにホーガンを呼んだら、いいぞって2人で話して握手して、そしたらハルクは一生懸命アックスボンバーの形を説明して、ハンセンは
『ノー・プロブレム、問題ない、使っていいぞ』
となったんだ」

――その後、ハンセンは全日本に転出するわけですね。
「そうだね。別々の道を歩むようになる」

――ハンセンの全日本移籍が引き抜き合戦のクライマックスかと思いますが。
「そうだね。そもそもブッチャーが新日本に来たことが引き抜きの最初なんだけれども、IWGP参戦を表明して、それはそれはすごかったわけ。だけどそのあと、シンを取られたでしょ」

――そして、ハンセン。
「そうだねえ、この2人はさすがにショックだったよね」

――その末に、両団体で話し合いがもたれて引き抜きはやめようということになったんですよね。
「(馬場、猪木、新間が写った)この写真だよね。82年の7月3日。馬場さんと猪木さんが会談をおこなったのよ」

――どちらから話を切り出して会談が実現したのですか。
「(東京スポーツ紙の)櫻井康雄さんと(ゴング誌の)竹内宏介さんが(エスカレートする引き抜き合戦に)心配してね。どこだったかな、まずは3人で食事をして、
『引き抜きは、もうやめましょうよ』
という話になった。引き抜くんじゃなくて、話し合いで選手の交流をするとか、そういう方がいいじゃないかと。それで、竹内さんに、馬場さんに話し付けられるかと言ったら竹内さんはできると。じゃあ俺も猪木さんに話すよとなって、それで実現した場所が九段のグランドパレス。そこで馬場さんと猪木さんが会ったのよ」

――竹内さんが馬場さん、新間さんが猪木さんに話しを持っていったと。
「そう。特別に部屋を取ってね。馬場さんと猪木さんのどちらが先に部屋に入ったかはわからないけど、話し合いの間、我々は下の階でお茶を飲んでた。1時間くらい待ってたかな。部屋の番号を調べてもらって、竹内が馬場さんのところに連絡した。しばらく待ってから俺も猪木さんに連絡した。そしたら上がってこいよと。それで竹内さんと一緒に部屋に行ったんだよね。部屋に入っていったら、2人のニコニコ顔が見られたんだよ」

――いくら和解を目的とした話し合いとはいえ、引き抜き合戦の最中ですから険悪なムードで始まったとかなかったですか。
「全然ない! 」

――いざ会ってみたらまったくなかった?
「ない! 」

――最初から引き抜きはやめようという前提で話し合いになったのでしょうか。
「そういうことだよね」

――新間さんの方も、お互いに選手を引き抜くのはやめにしたいという気持ちがあったのですか。
「そういう気持ちはあったよ、うん」

――ハンセン引き抜きのショックが大きかったからでしょうか。
「うん、それとシンね。まあ、2人の話じたいは簡単に終わったんだと思うよ。久しぶりに2人で会ったから、そのあと2人でいろんな話をしてたと思うよ。下で待っていた俺たち(新間、竹内)は、長くなってるのはいいことだと。昔話をいろいろしてるんだろなと思ってたよ。部屋のなかで話をしてたのは馬場さんと猪木さんだけ」

――話し合いが終わってから新間さんが部屋に入り、この写真を撮ったのですね。
「竹内さんと一緒にね。この写真のシャッターを切ったのが竹内さんで、俺も彼のカメラでシャッターを切ったよ。彼もこのときの写真を持ってたね。宝物ですよ」

――なるほど。では、馬場さんがいなければ新間さんの道もだいぶ変わっていたでしょうね。常に新間さんの仕掛けであったり、そういったものに対しては常に馬場さん姿が背後にあったわけですよね。
「うん、あった。日本プロレス界の馬場と猪木はどういう関係だったか。馬場さんは富士山で、猪木さんは北岳だった。日本一の富士山がいつでも目の前にあるような気がしてたね。
 この富士山を超えるにはどうしたらいいのか。猪木さんは、日本第二の山、南アルプスにある標高3193メートルの北岳だ。そこに登ると、必ず草鞋をおいてこなければいけないという言い伝えがある。なぜかというと北岳の神と富士山の神が論争をしてオレの方が高いとお互いが言い合って、もうひとりの神が出てきて大きな大きな竹竿で(高さを)はかったんだという。そうしたら北岳の方が少し低かったと。富士山が日本一の山となり、北岳の神がこの山に登ってくる人間は草鞋をおいていけと。草鞋が積もって富士山と同じ高さになる、超えるようにしろという言い伝えが昔からあった。その山が北岳だと。そびえ立つ富士山を超えたい。その山がジャイアント馬場であり、我々新日本プロレス軍団は北岳だったわけだ。なんとしてでも馬場を超えよう、富士山を越えよう、積み重ねていく草鞋になろうと。一戦一戦アントニオ猪木が闘うことがその草鞋を増やしていくと。いつかは北岳が富士山を追い越す高さになるだろうと。それにはどうしたらいいかと考えたのが、IWGPだったんだよね」

――猪木さんが超えるために、新日本プロレスが超えるために。
「そう」

――引き抜き合戦は終わっても、馬場vs.猪木、全日本vs.新日本の闘いは形を変えて続いていくわけですね。
「そうですよ」

――では、新間さんにとって、馬場さんとはどういう方でしたか。
「初めて会ったときから大きい人だなあって。
それが1962年、小倉の三萩野体育館ね。そこで豊登さんから新人時代の猪木さんを紹介されたんだけれども、同じ控え室に馬場さんもいた。同じ控室にいたにもかかわらず馬場さんはなぜか紹介されなかったんだ。控室の前に豊登さんが猪木さんを呼び出して紹介してくれた。その部屋の中に馬場さんがいるのが見えたんだけれどもね。なんでかなと思って豊さんに聞いたんだけれども、
『馬場はタッパもあるし、将来絶対にスターになる。が、俺が一番期待しているのはこの男、猪木寛至なんだ』
と。そこからずっと馬場さんも俺の意識に入っていたよね。そして新日本と全日本に分かれて、俺たちはずっと馬場さんを超えたいと思って闘っていた。とにかく馬場さんは、人間としてすごい人だったね。素晴らしい人だった、うん。誠実さがあって。だから猪木さんと一緒に超えたかったんだよね」

 映像を交えて再現される「ジャイアント馬場vs.スタン・ハンセン」。この方式は新間が16年10月7日に後楽園ホールで開催した「昭和の新日本プロレスが蘇る日」がモチーフになっているのかもしれない。このときはアントニオ猪木、坂口征二、藤波辰巳(現・辰爾)、タイガーマスクらの名勝負がダイジェストでスクリーンに映し出され、昭和の新日本が平成の時代に共有された。 そして今回は、昭和の全日本が令和の時代に蘇る。ベストバウトを獲得した馬場さんの名勝負。あれからちょうど40年の2・4当日、
「当時はあえて見なかった」
という新間は、この試合からいったい何を思うのだろう。是非、会場で、あのときの興奮を味わいたい。

◎2月4日(木)「ジャイアント馬場23回忌追善興行」開催記念インタビュー[vol.4] 大会プロデューサー和田京平&木原文人】
82年2月4日、伝説の名勝負「馬場vs.ハンセン」東京決戦! を再現!!
「馬場さんが作った時間を再確認するようなイベントにしたい」

 昭和のプロレス界を支え、日本国中で絶対的知名度と人気を誇ったジャイアント馬場さん(享年61歳)。23回忌を迎える今年、「追善興行」が2月4日(木)東京・後楽園ホールでおこなわれる。大会プロデューサーを務めるのは全日本の和田京平名誉レフェリーと木原文人リングアナウンサーだ。大会では82年2月4日に実現した「ジャイアント馬場vs.スタン・ハンセン」の初シングルが“試合”として組まれている。年間ベストバウトを獲得した伝説の名勝負がどのように再現されるのか。そして、2代目タイガーマスクの登場や、メインで揃う三冠ヘビー級王者トリオなど話題満載。大会を前に、京平&木原の両名に見どころなどを語ってもらった。(聞き手:新井宏)

和田京平レフェリー(右)木原文人リングアナ(左)

――2月4日、後楽園ホールにて「ジャイアント馬場23回忌追善興行」が開催されます。
木原「日本のしきたりからいくと、三回忌、七回忌、十七回忌とかありますよね。23回忌というのは(2018年4月14日に亡くなられた馬場夫人)元子さんの遺言のひとつでもあって、23回忌はひとつの区切りとしての最後くらいにあたるんじゃないかと。次は33回忌なので、ここから10年後はどんな世界に変わっているかわからない。
 ということで、19年2月には両国で没20年追善興行をやりましたが、またみんなと話をして、京平さんを発起人として、プロレスといえば後楽園、馬場さんといえば後楽園なので、今年は後楽園で勝負をしようかと。できれば馬場さんの誕生日とか命日の前後を考えてやりたいなと考えていたんですけど、2月4日に後楽園でできることになったんですね。それからいろいろと話しているうちに、2月4日は馬場さんとスタン・ハンセンさんが東京体育館で初めてシングルマッチで闘った日(82年2月4日)だと気づいたんです。結果的に試合は両者反則だったんですけども、なんとその試合が東京スポーツさんの年間最高試合賞をいただいた。すごい歴史的大会の日で、その日と同じということは、これはもうなにかの運命かと思い、23回忌追悼興行は“馬場vs.ハンセン、東京決戦”みたいな感じでテーマを考えたんです」

木原文人リングアナ

京平「たまたまホントに2月4日東京体育館のあの試合があったのと同じ日に後楽園でできることになった。だったらこれをプッシュしていこうかとなったんだよね。この試合って、一般の人以上に、プロフェッショナルの人に見てもらいたいんですよ。いまのレスラーが見たら、きっと自分らもこういうふうに闘いたいと思うだろうけど、いまのオマエらじゃ無理だろうと。その辺をアピールしたい。あの試合って、メチャクチャでハチャメチャなんだけど、でも、これぞプロレスなんだよね」

和田京平レフェリー

――プロレスの迫力、興奮といった醍醐味が詰まったような試合でした。
京平「そう。ヒールがいてベビーフェースがいて、そして、ベビーフェースも怒ればヒールも怒る。その辺の駆け引きというか、これぞプロレスという試合。ぜひ、プロフェッショナルにこそ見てもらいたい、見せたいですね。いまとなってはプロフェッショナルも見てないと思うしね。オレも久しぶりに見たんだけど、やっぱりいいよ」

――あの試合は、いつ見ても興奮します。
京平「そうだね。みんな見に来なさいって言いたいよね」

――「馬場vs.ハンセン」の試合が「23回忌追善特別試合」として当日の対戦カードに入っています。“試合”として組んだのは?
木原「いまのこの時代で馬場さんのときとなにが後楽園ホールで違うかと言ったら、馬場さんの時代は会場にスクリーンがなかった。いま大きな団体は入場テーマ曲をかけるだけじゃなくて、スクリーンを用意して煽り映像を流したりしますよね。そういう時代にマッチしたやり方でいきたいと思います。いま京平さんがおっしゃったみたいにプロにも見せる、そして多くのファンにもう一度見てほしい。そのためにも日本テレビさんのお力を借りて、2・4の試合を会場で見せたいと。ノスタルジックとかタイムトラベルじゃないけど、そのときに戻る、それがいま復活する、みたいなイメージの構成、演出にしたいと思っているんです」

――映像を流し、それにプラスしてなにかしらの演出が加わると。
木原「そうですね。いまここでホントに選手が入場してきたんじゃないかと感じるようなものを考えていますね。いままさに試合がおこなわれているような雰囲気にできればなと。当時の会場が後楽園ホールなら一番だったんですけども、東京体育館だったので、東京体育館の映像にはなりますけどもその試合をいまっぽく演出したものを流せればと。馬場vs.ハンセンの試合を全世代の人たちともう一度共有してみたいなと思っています」

――京平さんも、その試合をあらためてスクリーンでご覧になるわけですね。
京平「木原の演出がどのようになるのか、楽しみにしていますよ。当時の映像をよく見ると、オレは憶えていないんだけど、ジョー(樋口)さんが倒れた後、オレが入って2人(馬場、ハンセン)を止めてたんだよねえ。あらためて見て思ったよ、オレもあの試合に関わってたんだって。あのときのオレ、髪の毛が確かにあったよ(笑)」

木原「ボクもこの試合をあらためて見直したんですよ。そしたら京平さんがいらっしゃって、その京平さんがいま(現役で)いらっしゃるというのがホントにすごい価値あることだなと思いましたね。ジョーさんも故人になられたし」

――過去に見た方はもちろん、初めてだという方にも当時のプロレスの興奮を味わってもらいたいですね。
木原「そうですね」

――この「馬場vs.ハンセン」が第3試合として入っています。当日は全6試合。それぞれ見どころを伺いたいと思います。
京平「このビデオ見ちゃったら他のカードは要らないよ(笑)。でも、そういうわけにもいかないので。まあ、全カード、なんだかんだ馬場さんが絡むんですよ」

――では、まずメインから伺います。武藤&諏訪魔&小島聡組vs.天山広吉&カズ・ハヤシ&河野真幸組。
京平「天山選手は新日本の大会(1・6TDC)で首を負傷してしまい欠場。その後無事に回復し復帰したので、この大会に出てもらえることになりました。前々から元子さんも天コジ(天山&小島組)が好きでね。なので、ここは天山選手しかいない。きっと馬場さんが呼んだんだよね」

――それにしても豪華な6人タッグマッチですね。武藤&諏訪魔&小島は三冠王者トリオ(諏訪魔は現王者)になりますね。
京平「そう、三冠チームですね。このカードって、バトルロイヤルにしたらメチャクチャになるよ。武藤組なんかさ、チームとして成り立つの?って感じ」

――バトルロイヤルでは収拾つかなくなりそうですね。
京平「いやあ、よくもまあこんなカード作ったなってくらい」

木原「京平さんが作ったんですよ(笑)」

京平「ようこんなカード考えたなって。そこに和田京平がレフェリングするんだよ。全員が喧嘩してんじゃないかってくらいメチャクチャになるよ。それでも馬場さんのために一致団結してね、この試合を成立させなきゃいけないという。レフェリー泣かせでもあってレスラー泣かせの試合でもあるよね」

――全体的には武藤全日本カラーの濃いカードにもなりますね。
京平「そうだね。武藤全日本の方が強いね。こっちもやべえじゃんって感じ。それでも馬場さんのためにみんな揃ってくれる。闘いにくいだろうから嫌々と言ったら失礼なんだけど、一番オレが嫌々だよ(笑)」

――プロレスって、得てして闘う選手が嫌々な方がリング上がおもしろくなったりしますよね。
京平「そうなんだよね。だからこそ、それはそれでまたおもしろいじゃんって思うよ」

――コイツ嫌いだなって思う選手との試合ほどファンは見てみたいもの、興奮するのでは?
京平「そうだよ。そこで三沢光晴vs.川田利明という試合が生まれたんだしね」

――なるほど。では、他のカードについてお聞きします。こちらは第1試合から順を追っていきましょう。第1試合は、新崎人生&長井満也&本間朋晃組vs.西村修&アンディ・ウー&アレハンドロ組。
京平「大会全体、みんな馬場さんが絡んでるカードなんですよ。この試合に出場する長井については、入門したいといって来たけどできなかったんだよね」

木原「高校生のときに全日本に入門テストに来たんですよ。長井さんはテストを受けたあとで馬場さんに高校卒業したらまた来なさいと言われて、それを落ちたと思ってUWFへいった。京平さんがおっしゃるには、それは(入門)OK(の意味)なんだと。大森さんもそうだったんですけど、在学中の場合、学校を卒業してから来なさいというのが馬場さんのスタンスだったんです。なので、長井さんは入門テストに合格していたんじゃないかと思います」

京平「長井の勘違いだったんだよね。この試合で長井と組む新崎人生なんだけど、馬場さんはみちのくプロレスってまったく知らなかったんだよ。(みちのくプロレスが)挨拶に来たとき、素人だと思ったらしい。そのときに人生もいたのかな? いなかったのかもしれないけど、ただみちのくプロレスというのを知らなかった。でも東京ドームで見たときに馬場さんが一番興奮した試合がみちのくのプロレスだった。週プロの興行で夢の架け橋ってあったでしょ。そのとき、コイツらの試合が一番おもしれえなってモニター見ながら、言ったのがみちのくプロレスで、その中にいたのが新崎人生だったんだよね。そのときにハヤブサとかいろいろ見極めてたんだけど、そういう意味ではやっぱり馬場さんとは絡んでる。人生に会ったとき(全日本に)出てくれなって言ったけど、ちゃんと来てくれたのはうれしいですよね」

――第2試合の8人タッグ。馬場全日本色の非常に濃いカードになりました。渕正信&大仁田厚&グレート小鹿&越中詩郎組vs.2代目タイガーマスク&大森隆男&井上雅央&菊地毅組。
京平「これ、全部が全日本ですよ。ただタイガーマスクだけちょっと違うとこなんだけど…あ、2代目? 2代目って…三沢?」

木原「(笑)」

京平「これ、誰がやるの?」

木原「これは乞うご期待で。これ、ファンのみなさんがどう考えているか。何気に気づかれてないんですよ。百田光雄さんがタイガーマスクになるわけではないです(笑)。百田さんは体調が悪くて出場は無理だという判断になったんですよね。でも、試合はできなくても会場には行きたいよという話はいただいていています。カード変更となり、ボクの方も走ったんですよ。変更しても、これこそ全日本だよねというカード、馬場さんの時代の全日本のカードという感じにしたかったんです。
ここに誰か関係のない人をポンと入れても意味がなくなってしまいますからね」

――テーマがぶれますからね。
木原「ハイ。それで方々走ったんですよ。でも、みなさん引退されてたり、体調がよくなかったり、身体作りが間に合わなかったり。いろいろ考えたんだけど、ホントにいないんですよ、すでに他界された方もいるし。そのあげく、ボクがちょっと思いついて、こういうことになったんですけどね」

――2代目タイガーは木原さんのアイデアだと。
木原「ここから(原作者)梶原一騎先生のご親族、講談社様、(漫画家)辻なおきさんと方々の了承を全部得て、その結果ゴーサインが出たんです。そういった意味でも楽しみなんですよ」

――つづいて、BUSHIvs.青柳亮生。
京平「BUSHIは、いまはもうマスクマンのトップになったからね。きっと対戦相手の青柳がマスク被ったらBUSHIになるんだろうなって思う。ただ、このカード見た時点では青柳がBUSHIにかなうわけないよって思われる。だけれども、BUSHIの2代目じゃないけど、BUSHIの後を継いでもおもしろいくらいだと思うよ。まだまだなんだけど、これから伸びる選手という意味で、BUSHIをぶつけようと思ったんだよね」

――将来の可能性に期待してと。
京平「そう。BUSHIも全日本育ち。そういった意味では先輩が後輩に教えてやるじゃないけど、胸を貸してやる気持ちでやってほしい。(青柳亮生の)何年か後を楽しみにしてますよ」

――レトロ感あるカードが中心ですが、このカードに関しては未来を見据えてのマッチメークということになりますか。
京平「未来だね。馬場さんは大きいレスラーを入門させてきたけど、逆に小さいレスラー、動きのいい選手も好きだった。そういった面ではいまの金丸義信みたくなってもらえれば。金丸ってあんなに小さいけどすごく頑張ってた。いまじゃ大変なもんだもんね。そういった意味では馬場さんも見る目があったんだね。だから未来を見つめたカードを組んだんだ。だからBUSHI、(青柳亮生をよろしく)頼むなってカードだね」

――セミは永田裕志&青柳優馬組vs.鈴木みのる&佐藤光留組です。これはやはり、永田vs.鈴木が中心ですか。
京平「鈴木みのるが一番クセあるからね。馬場さんがいたら絶対にこんなカード組まないよ(笑)。馬場さんならば鈴木みのるというレスラーは認めないんだけど、プロレスに関して一番考えているのが鈴木みのるというレスラー。その弟子というか下にいるのが佐藤光留。なんでもこなすのが佐藤光留だよね。そこに新日本から永田選手が来てくれて、青柳も全日本から来てくれて。これもまた未来だよね」

――未来とは、お兄さんの方の青柳選手ですね。
京平「弟に負けないよう、このカードで頑張ってほしいな。オレは永田と鈴木の試合よりも、青柳と鈴木の試合を見てみたいね」

――こういう機会でもない限り、なかなか対戦できませんからね。
京平「そう。佐藤光留と永田の試合も見てみたい。だからシングルマッチの複数形みたいな感じだね。それがタッグになったってこと。シングルマッチとしてみた方がいいんじゃない? タッグマッチなんだけど、複数のシングルとして見てくださいと。だから鈴木みのるvs.青柳、永田vs.佐藤光留。タッグだけどシングルとして見てくれればおもしろいものが描けるんじゃないかな。試合では鈴木と永田もぶつかるでしょうし、佐藤と青柳も全日本でやってる。だから、このふたつよりもふだん見られない方に注目したい。馬場さんはこんなカードは絶対に組まないよ。それをあえて馬場さんに見てもらいたいなあ。馬場さん、おもしろいですよ、楽しいですよ、この試合ってね」

木原「なぜここで永田と青柳が組んでるかというと、青柳選手は過去に新日本に出てたじゃないですか。ライオンズゲートでよく永田さんとか小島さんと闘ってたんですよね。昨日の敵は今日の友と言いますけども、青つながりもありますし、アジアタッグを巡って闘ったこともある。そういった意味で接点があります。そこで今回、この2人が組む意味合いも出てくるんじゃないかと思いますね」

――なるほど。ところで、馬場さんの追善興行は今回がひとまず最後になるのでしょうか。
京平「次にやるとしたら、オレはきっとリタイアしてるし」

――10年後とか?
京平「うん。だからホントならば和田京平、ここでレフェリーもリタイアしたいんだけど」

――…。
京平「でも、リタイアってしちゃうと、カムバックできなくなる。そこはホントにいま悩んでるところ。でも、やっぱりやめるなという声が多いんでねえ」

――もちろんそうでしょう。
京平「腹の中は馬場さんの興行でやめたいんだけど、そうはいかないなあって。だからなんていうのかな? 馬場さんの興行としては最後だけど、馬場さんがまだ和田京平にやれって言ってくれる興行なんじゃないかなって思うんですよねえ。ホントならば(現在の)66歳でレフェリー引退したいところだけど、いやあまだまだなんだなあっていまの三冠(ヘビー級)戦を裁いていても、まだオレが必要なんだろうなって思うんですよね」

――京平さんなしの三冠戦なんて考えられません。
京平「もっとも多くの三冠戦を裁いたレフェリーが和田京平だから。この馬場さんの興行って、自分の中では最後の追善興行なんだろうなって思ってます。次があるとしてもオレは車イスだろうから(苦笑)。自分の頭の中では和田京平はこの興行の中で引退してるんじゃないかな。自分の中では、最後のレフェリングは馬場さんの興行にしたいと思うんですけどね」

――気持ち的にはそうだとしても、実際にはまだまだ続けられますよね。となれば、引退ではなく気持ち的に一区切りとなりますか。
京平「そう、一区切りじゃないかなって。だからこそ、この興行への思いは大きいですよ」

木原「馬場さん没20年の両国から始まり、デストロイヤーさんのメモリアルも含め、馬場さんの大会を3回やることになります。これでプロデュースとか運営とかさせてもらってあらためて気づいたことは、(馬場さんの逝去から)22、23年経って、残念なことに故人になられた方もいます。
 両国のあたりから悩みましたよ。
 でも京平さんの言葉にもありましたけど、未来に向けてというところでも見てほしい。BUSHIvs.青柳の試合は未来に向けて、そして馬場さん見てくださいと、そういうメッセージ性があると思うんですよね。だからこの大会で温故知新じゃないですけど、馬場さんのVTRを流して、渕さんや大仁田さんとか70年代から馬場さんのために全日本で頑張ってきた人たちを見てほしい。仮にいまオールスター戦がおこなわれたとしたら、こういったキャリアの人たちは出ないと思うんです。馬場さんの大会だからこそ、こういうことができる。だから対世間じゃないですけど、プロレスを見に来なくなった50歳代や60歳代の方々も見て楽しめる、そしてこの先も見てみたいなあと、それは馬場さんが作った時間なんだなということを再確認するようなイベントにしていければなと思ってますね。
 こうやって興行ができるのも馬場さんのおかげであり元子さんのおかげだと思っています」



 両名の話から、馬場さんへの思いがひしひしと伝わってきた。リング上の試合はもちろん、“試合”としておこなわれる馬場vs.ハンセンも、いまだからこそ、あえて後楽園ホールのスクリーンで見てみたい。過去には東京ドームでもこのような試合がおこなわれた。それは馬場さんが亡くなって3ヵ月後の“ジャイアント馬場引退試合”(99年5月2日、G・馬場&ザ・デストロイヤー組vs.ブルーノ・サンマルチノ&ジン・キニスキー組)だ。
 リングには16文シューズが置かれ、馬場さんは大観衆に見守られて10カウントゴングを聞いた。そして今回の23回忌興行ではどんな形で“特別試合”がおこなわれるのか。相手は馬場さん三回忌の東京ドーム(01年1月28日)で引退した宿敵のハンセン。スクリーンとリングを通じて馬場さんのいた時代に思いを馳せたい。