[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第81回 藤波が煙たがった“笑わない”米プロモーター

[週刊ファイト10月22日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第81回
 藤波が煙たがった“笑わない”米プロモーター
・数多くのスター選手を輩出したジム・クロケット・プロモーション
・有望新人を一気に売り出す戦略で業績をグングン伸ばしていった
・テレビ放送権料が皆無に等しい当時の米プロモーター
・クロケットJR氏に関する悪口がほとんど出なかったことも事実


 70年代終盤から80年代前半にかけてリック・フレアー、リッキー・スティムボードなど数多くのスター選手を輩出したジム・クロケット・プロモーション(WCWの前身)。同プロの社長でNWA会長も務めたジム・クロケットJR氏は、馬場・全日本プロレスだけでなく猪木・新日本プロレスとも交流があったが、一方で“笑わない”プロモーターとしても知られていた。


藤波辰爾の海外遠征~1978年3月20日MSGでのWWWFジュニア王座防衛戦、ジプシー・ロドリゲス戦

 1989年に“米テレビ王”テッド・ターナー氏に身売りするまでのジム・クロケット・プロモーションのテリトリーは、ノース&サウス・カロライナ州、バージニア州、ウエスト・バージニア州の4州とジョージア州の一部。本拠地はN・C州シャーロットだが、NWA世界ヘビー級王者を迎えてビッグマッチを打つときは、同州グリーンズボロの大会場が使用されることの方が多かった。

グリーンズボロ・コロシアムで行われた王者ハーリー・レイス対リック・フレアーのNWA世界ヘビー級戦

 クロケットJR氏が弟デイビーとともに父親のジム・クロケット氏からこの広大なテリトリーを受け継いだのは70年代初めだが、既存のスター選手の集客力に頼らず、有望新人を一気に売り出す戦略で業績をグングン伸ばしていった。80年代前後の興行規模や売り上げは、ビンス・マクマホンSR氏の『キャピタル・レスリング・コーポレーション』(WWWF)、バーン・ガニア氏の『ミネアポリス・ボクシング&レスリング・クラブ』(AWA)と比較しても劣らなかったと言われている。

 さて、クロケットJR氏の存在が日本でクローズアップされたのは、77年6月9日に彼の地盤であるバージニア州ノーフォークで坂口征二、ストロング小林組vs.タイガー・ジェット・シン、上田馬之助組の北米タッグ選手権戦が行われたとき。この試合はNET(現テレビ朝日)系『ワールドプロレスリング』の枠内で放送されるとともに、『週刊ファイト』、東京スポーツの2紙が報道した。

ノーフォークの会場でT・J・シンに襲撃された井上記者のことはタブロイド紙時代の週刊ファイト紙面を飾った。

 ノーフォーク大会を取材したのは私で、大会前は「新日プロ、NWAの実力者に急接近!!」と派手に書き立てる腹積もりだったが、現地での坂口━クロケットJR会談はなく、ただのテレビ撮りと分かったため、ありきたりの試合レポートに終わってしまった。

 のちに判ったことだが、ノーフォークという“田舎町”で北米タッグ戦が行われた真相はこうだ。

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