[週刊ファイト2月6日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第63回
テリー プロレス人生のターニングポイントとなったハリウッド進出
・G・馬場社長を困らせたテリーの一方的な引退決意
・アグレッシブな闘い方を見せるテリーはカッコ良かった
・結果的に馬場はウソをつかれたことになる
・レスラーとしては5年ぶりの来日を果たすかもしれない
ミルホンネットの名物記者、寺内1/2兵衛とテリー・ファンク
1970年代後半、ポスト馬場として期待されたジャンボ鶴田の興行人気が伸び悩むなか、77年暮れの『世界オープン・タッグ選手権』でのアブドーラ・ザ・ブッチャー&ザ・シーク戦を機に大ブレークしたのがテリー・ファンク。当時の全日本プロレスにとってまさに救世主なのだが、外国人選手が新エースに躍り出たことによってJ・鶴田のモチベーションが下がるなど“支障”も生じた。しかし、それ以上にジャイアント馬場社長を困らせたのはテリーの一方的な引退決意である。
「テリー、あっちにいるよ。俺は話すことないから」
テリー人気の沸騰後、全日プロ担当の記者たちは、ジャンボ鶴田に何度もそう言われてコメントを取れなかった。口調こそ穏やかだが、その態度は完全にむくれていた。
アホらしくてやってられない。鶴田の顔にはそう書かれていた。
とは言え、全日プロの鶴田エース路線はそのまま。テリーがスターダムにのし上がった後も鶴田に対する試合上の扱いは以前と変わらなかった。
▼ジャンボ鶴田「三度目の夢」
だが、両者の試合のボルテージの高さや、声援の多さはテリーが圧倒的に上。外国人ながら事実上の全日エースとみられたのは仕方がなかった。
加えて、『世界オープン・タッグ選手権』最終戦(77年12・15蔵前国技館)でのA・ザ・ブッチャー&ザ・シーク戦でテリーが大ヒーロー役を演じてからは女性ファンが急増。全日プロの会場の雰囲気はガラリと変わった。
兄ドリーとは対照的に喜怒哀楽を表しながらアグレッシブな闘い方を見せるテリーはカッコ良かった。なんせ、記者や社員の前では仏頂面の元子夫人までがテリーと話すときだけは満面に笑みを浮かべるのだから想像がつくだろう。
もし、テリーがそのままプロレスを続けていたら1990年までに現役引退。大嫌いなビンス・マクマホンjrのWWFに上がることも老体にムチ打って日本のインディーズに参戦することもなかっただろう。
だが、全日マットでのブレーク直後、テリーの役者顔負けの演技力に目を付けたシルベスター・スタローンからハリウッド映画『パラダイス・アレイ』(78年)への出演オファーを受けてからテリーの人生観はガラリと変わる。
『パラダイス・アレイ』のポスター