[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第56回 不透明な点を残したまま、IWGP決勝リーグを敢行した新日プロ

TOP画像:アントニオ猪木を破り、第一回IWGPリーグ戦を制覇したハルク・ホーガン

[週刊ファイト9月19日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第56回
 不透明な点を残したまま、IWGP決勝リーグを敢行した新日プロ
・夢の企画を次々に実現させた新日本プロレス
・外国人勢のタイトル返上第1号は、全日プロから新日プロに電撃移籍したアブドーラ・ザ・ブッチャー
・新日プロはここでもズサンさを露呈する
・決勝リーグを日本で行う点にはまったく異論はない



1982年4月、東京・新宿の京王プラザホテルで行われたIWGP実行委員とプロレス・メディアの懇談会。新間氏はこんなところにも経費をかけていた。(※左からI編集長、井上記者、佐藤デイリースポーツ記者、グラン浜田、フローレスUWA代表)

 1970年代半ばから80年代初めにかけてアントニオ猪木vs.モハメド・アリ戦、タイガーマスク輩出など夢の企画を次々に実現させた新日本プロレス。しかし、あまりにもスケールが大き過ぎたため、当初のプラン通りに進まなかったり、あり得ない矛盾が生じた企画もあった。その最たるものが世界統一構想「IWGP」である。

 すでにプロレスにのめり込んでいた小学生の頃、私は『月刊プロレス&ボクシング』(ベースボール・マガジン社刊)のある記事に胸がときめいた。

 インターナショナル選手権を保持する力道山が羽田空港での帰国会見において、時のNWA世界ヘビー級王者バディ・ロジャースとの「リアル・ワールド選手権戦」実現に向けて動き出すことを明かしたというもの。

 ロジャースとの契約交渉が決裂したため、この“真の世界一決定戦”は暗礁に乗り上げたが、私は実現していてもタイトルの一本化を図れなかったことを後に確信する。

 さて、新日本プロレスが力道山のそれとは違う戦略で世界統一構想をブチ上げたのは19年後の1981年。同年3~4月に北米ヘビー級、同タッグおよび至宝のNWFヘビー級王座を返上(消滅)。この構想に懸ける意気込みを見せつけた。

 外国人勢の返上第1号は、全日プロから新日プロに電撃移籍したアブドーラ・ザ・ブッチャーだ。『第4回MSGシリーズ』開幕戦、5・8川崎のリングに登場したブッチャーは新間寿氏やビンス・マクマホン・シニアWWF代表の前でカリビアン・ヘビー級のベルトを放り投げ、IWGP参加を宣言。この企画に対するファンの期待をさらに膨らませた。

 ところが、一連のタイトル返上は完全に見切り発車。1年後の82年4月、新日プロと提携する米国、カナダ、メキシコ、ヨーロッパ、中近東のプロモーターを東京に招集してIWGP実行委員会を発足させたものの、具体的なことは何ひとつ決まらず、単なるマスコミ向けの“絵作り”に終わっている。

 それどころか夫人同伴のマクマホンSR氏、マイク・ラーベル氏(ロス地区)、フランク・タニー氏(カナダ・トロント)らは観光気分。彼らに質問しても肝心なところは「シンマに聞いてくれ」の一点張り。この企画に真剣に取り組んでいないことを窺わせた。


77年6月ビンス・マクマホンSr.氏と井上譲二週刊ファイト特派員(当時)、アントニオ猪木と(右)

 ある新日関係者によると、プロモーター招集にかかった経費は千数百万円で、飛行機代、滞在費はもちろん、協力費という名目でギャラまで支払われたという。

 この企画には最初から無理があり過ぎた。


京王プラザホテルで井上譲二記者(左)とマイク・ラーベル。右はタダシ☆タナカ記者撮影1980年WRESTLING DIGEST vol.6

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