“美獣”ハーリー・レイスは古き良きプロレスの宝石(ビジュー)だった

 既に本誌でお伝えしている通り、“ミスター・プロレス”“美獣”ことハーリー・レイスが現地時間8月1日に亡くなった。享年76歳だった。
 レイスと言えば、当時は世界最高峰とされたNWA世界ヘビー級チャンピオンに、ルー・テーズを超える8度(実質7度)も輝いた、まさしくプロレス界にとって古き良き時代の象徴とも言えるチャンピオンだろう。NWAチャンプらしい、実に嫌らしい防衛術を身に付け、さらにベルトを奪われてもまた取り返すという、それだけプロモーターにも信頼されていたレスラーだった。

 だが、これだけの実績があるにも関わらず、日本での人気はやや薄いと言わざるを得ない。NWA王者のために、来日したときは短期での特別参加がほとんどだったし、全日本プロレスが主戦場で新日本プロレスのマットを踏まなかったのも、その原因かも知れない。
 日本でのファンは少なかったとはいえ、存在感は抜群だった。NWA世界ヘビー級王者のテーマ曲『ギャラクシー・エキスプレス』は、レイスが最も似合っていた。

▼ギャラクシー・エキスプレス


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▼追悼ハーリー・レイス-G1折り返し展望-サマースラム不安-ONEマニラ

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ハーリー・レイス&スタン・ハンセンvs.ザ・ロード・ウォリアーズ

 筆者はこういう訃報記事を書くとき、その人物の時系列を追っていくのだが、今回はその原則を崩した。そして、ハーリー・レイスについて、最も印象深い試合を紹介したい。
 それが1985年9月2日、アメリカ・フロリダ州で行われたAWA世界タッグ選手権、ザ・ロード・ウォリアーズ(王者組)vs.ハーリー・レイス&スタン・ハンセン(挑戦者組)である。

 この試合はテレビ東京系『世界のプロレス』で放送された。『世界のプロレス』は土曜日の夜8時から定期放送されていたが、当時の筆者は裏番組のフジテレビ系『オレたちひょうきん族』なぞ目もくれず『世界のプロレス』を見るという、実に模範的な高校生だったのである。
 おかげでクラスの話題には付いていけず、筆者は常に浮いた存在だった。クラスメイトはテレビ朝日系の『ワールドプロレスリング』は見ていても、さすがに『世界のプロレス』までは見てなかったのだ。どちらも番組名の意味としては『世界のプロレス』なのだが……。

 中でもこの日は、特別な試合だった。何しろスタン・ハンセンとザ・ロード・ウォリアーズとの対戦が見られるのである。不謹慎ながら、このときの筆者は「ハンセンのパートナーが、レイスではなくブルーザー・ブロディだったらなあ」と思ったものだ。
 ザ・ロード・ウォリアーズは『世界のプロレス』が生んだスーパースターである。未来日ながら『世界のプロレス』のおかげで人気が日本でも一気に高まり、この年の3月、ウォリアーズは全日本プロレスに初来日した。
 ちょうどこの頃の全日では、スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディの“超獣コンビ”を世界最強タッグ・チームとして売り出しており、ザ・ロード・ウォリアーズとの『世界最強タッグ決定戦』が期待されていた。残念ながら間もなく、ブロディが新日本プロレスへ移籍してしまい、この夢のタッグ戦は実現しなかったが。

 それでも、ハンセンとウォリアーズが対決するだけではなく、ハンセンとレイスのタッグ・チームも魅力だった。両者は共に全日マットを主戦場としながら、タッグを組んだのを見た記憶がない。しかも、全く異質のレスラー同士だ。
 もちろん、レイスとウォリアーズという、頭脳とパワーの激突も見ものである。(失礼ながら)金がないはずのテレビ東京は、わざわざ現地まで行って、この歴史的タッグ・マッチを実況中継したのだ。もちろん筆者は、この日の『世界のプロレス』を待ちわびていた。

▼ザ・ロード・ウォリアーズvs.ハーリー・レイス&スタン・ハンセン

 上記の動画ではカットされているが、試合前にザ・ロード・ウォリアーズのマネージャーだったポール・エラリングは「今日はコイツら(ウォリアーズ)には、レイスとハンセンを殺してもいいと言っているんだ」とテレビ・カメラに向かって吠えていたのを憶えている。
 もちろん、これはテレビ向けのリップ・サービスで、本当に『殺せ』と指示したわけがないのだが、常識人のエラリングは裏でテレ東のスタッフに「ババに了解は取ってるのか?」と訊いてきた。

 既に全日本プロレスと契約をしているウォリアーズにとって、テレ東がジャイアント馬場の了解を得ずに、このタッグ・マッチを放送してもいいのか? とエラリングは心配したのだ。もちろん、全日のバックには日本テレビが付いているし、馬場の許可なしに夢のカードを先にテレ東が放送してはマズい。
 事の重大さに気付いたテレ東のスタッフは、レイスに相談した。レイスはすぐに馬場と連絡を取り、馬場は了承。レイスの政治力が活きたのだ。
 もし、レイスがいなければ契約に厳しい馬場のことだ。どんなトラブルに発展していたかわからない。もちろん、馬場がそれだけレイスのことを信用していた証である。

▼ハーリー・レイスはスタン・ハンセンとタッグを組み、ジャイアント馬場とは闘った
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古舘伊知郎が叫んだ「世界で5人目!」。その中にレイスがいた

 何度も来日しながら、とうとう新日本プロレスのマットには上がらなかったハーリー・レイス。そのため、新日信者からは印象が薄く、また『全日的ショーマン・レスラー』というレッテルが貼られていたように思う。全日嫌いの山本小鉄からの評価も低かった。

 しかし、そんな中で新日本プロレスの中継番組であるテレ朝系『ワールドプロレスリング』で、ハーリー・レイスの名前がクローズ・アップされたことがあった。またもやスタン・ハンセン絡みなのだが。
 1981年9月23日、東京・田園コロシアムでスタン・ハンセンvs.アンドレ・ザ・ジャイアントという夢の一戦が行われた。人気絶頂のハンセンが、世界最強のアンドレに対して、どう挑むのかが注目されたのである。

 ハンセンは、アンドレの250kgの巨体を持ち上げようとするが失敗。そのとき、実況の古舘伊知郎アナは「かつて、アンドレ・ザ・ジャイアントをボディ・スラムで投げた公式記録を持っているのは、ハーリー・レイス、ローラン・ボック、ハルク・ホーガン、そして日本のアントニオ猪木の4人だけであります!」と言っていた。そんな公式記録があるんかい! とツッコミたいところだが、アンドレを投げたトップにハーリー・レイスの名前があったのである。
 その後、ハンセンはアンドレをボディ・スラムで投げ捨て、古館アナは「世界で5人目! 世界で5人目!」と絶叫していた。

▼1979年1月7日のNWA戦、レイスがアンドレをボディ・スラムで投げる(14分50秒過ぎ)

 パワーファイターというイメージがないレイスが、アンドレをボディ・スラムで投げ捨てた最初のレスラーという称号を得たのである。レイスは、単なる老獪なレスラーではなかったのだ。
 だったら、ストロング小林の立場はどうなる!? と言いたいが、小林がボディ・スラムで投げたのはアンドレ・ザ・ジャイアントではなく、モンスター・ロシモフだった。

▼アンドレ・ザ・ジャイアントがボディ・スラムで初めて投げられた相手はハーリー・レイス!?

ハーリー・レイスの地元セントルイスで行った、馬場とのPWF戦

 日本でハーリー・レイスが最も注目されたのは、なんといってもジャイアント馬場とのNWA戦だろう 
 1979年10月31日、レイスは馬場に敗れ、NWA世界ヘビー級王座を明け渡した。これが馬場にとって、2度目のNWA戴冠である。そして1980年9月4日にはまた馬場がレイスを破り、NWA3度目の王座に輝いた。ただ、この2度はいずれもレイスが巻き返し、馬場は1週間天下に終わっている。
 これはもちろん、日本で馬場がNWAベルトを『借りていた』だけだが、当時は世界最高峰と言われたNWA世界ヘビー級王座を『借りる』ことができたのも、馬場の政治力と言えよう。

 NWA戦以上に、筆者の心に残っているのは、レイスと馬場とのPWFヘビー級王座の攻防だった。PWFは和訳すると太平洋沿岸レスリング同盟、本部はハワイにあるとされているが、実質は全日本プロレスでしか通用しないローカル・タイトルである。NWAに加盟したため『世界』の2文字すら付いていない。
 1982年10月26日、北海道の帯広で馬場はレイスの挑戦を受け、敗れたためにPWFタイトルをレイスに奪われた。馬場の代名詞であるPWFベルトは、海外流出となったのである。

 年が明けた1983年2月11日、ハーリー・レイスおよびNWAの本拠地であるアメリカのセントルイスで、レイスがチャンピオン、馬場が挑戦者としてPWFヘビー級のタイトル・マッチが行われた。ちなみにこの日、東京・後楽園ホールではザ・グレート・カブキが全日本プロレスのマットで日本デビューを飾っている。
 満員となったセントルイスのチェッカードームでは、この試合がメイン・エベント。“たかが”日本のタイトルが、NWAのお膝元で注目されていたのだ。

▼満員の観衆を集めたセントルイスのチェッカードームで行われたPWF戦

 アメリカで自前のタイトル・マッチを行った馬場も凄いし、地元で負けブックを呑んだレイスも凄い。よほどプロモーターに信頼されていなければ、こんな試合は成り立たないだろう。
 今と違いネットでの情報もなくて、日本の試合がテレビ中継されていなかったアメリカですら、馬場の試合で満員の観衆が詰め掛けたのだ。

▼NWA戦とPWF戦で、ハーリー・レイスとしのぎを削ったジャイアント馬場

 
古き良きNWAプロレスの象徴だったハーリー・レイス

 ハーリー・レイスを語るとき、NWAという組織に触れないわけにはいかないだろう。レイスはまさしく、古き良き時代の、NWAプロレスの象徴だった。
 NWAの正式名称はNational Wrestling Alliance、要するにプロモーターの集合体だ。普通、組織の名称の最後に“A”が付くとAssociation、つまり協会を意味するものだが、Allianceだと同盟になる。言ってみれば、商店街の組合のようなものだ。

 NWA世界ヘビー級チャンピオンになったレスラーには、全米でのサーキットが義務付けられていた。それは過酷な旅で、当時のレスラーなら誰でも『NWAチャンプになってみたい』とは思っていても、実際になってみると楽な商売じゃない、と思い知らされてしまう。
 NWAチャンプであるからには、強くなくてはならない。でも、強いだけではダメで、常に客をハラハラドキドキさせながら試合運びをする技量が求められた。NWA王者は地元のチャンプと闘うのだから、基本的には悪役。それでいて、最後にはNWAベルトを自分の腰に巻いている必要がある。

 つまり、かなり濃い内容のレスリングをするだけの技量がNWA王者には求められたわけだが、ハーリー・レイスはまさしくうってつけだった。だからこそ、8度もNWAベルトを腰に巻いたし、日本でもジャイアント馬場やジャンボ鶴田のライバルとして重宝されたのだろう。
 こういうプロレスは、現在のWWEでは通用しない。WWEの“E”は、Entertainmentという意味である。短絡的な楽しさを求めるWWEには、レイスには不向きだっただろう。レイスの『噛めば噛むほど味が出る』スルメのようなプロレスは、まさしくNWAに合致したものだった。
 晩年のレイスはWWF(WWEの前身)に移籍したが、あのキャラクター・プロレスは、レイスには似合わなかったに違いない。

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 実に味わい深いプロレス、時にはアンドレ・ザ・ジャイアントを投げ飛ばすようなプロレス、強烈なパンチを見舞うプロレス、勝ち役も負け役も自然にこなすことができるプロレス、それらのプロレスを体現できたのが、ハーリー・レイスというプロレスラーだったのだ。

 レイスは、アメリカでは“ハンサム”ハーリー・レイスと呼ばれていたが、日本では“ハンサム”を『美獣』と訳された。今更ながら、日本人の言語感覚の素晴らしさを思い知らされる。ただの2枚目ではなく、ハーリー・レイスは『美しいケモノ』だったのだ。
『美獣』は『びじゅう』、フランス語で言えば『ビジュー(bijou)』という発音で、つまり『宝石』を意味し、ハーリー・レイスはまさしく、プロレス界にとって宝石だったと言えよう。


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