[ファイトクラブ]井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第54回 全日vs.新日の争奪戦もあったMSGの昔話

[週刊ファイト4月18-25日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第54回
 全日vs.新日の争奪戦もあったMSGの昔話
・ブシロード・新日本プロレスのMSG初進出は夢のような出来事
・マクマホン・シニア代表によると同団体のビッグマッチの中で1番儲からない興行
・バックステージでの取材は他のどの会場よりやりづらかった
・MSGは、日本の団体にとっても、それくらい重要な大会場だった


77年6月ビンス・マクマホンSr.氏と井上譲二週刊ファイト特派員(当時)、アントニオ猪木と(右)

 昔のニューヨーク・マット事情及び、WWFと新日プロの蜜月関係を知る者にとって、今回のブシロード・新日本プロレスのMSG初進出は夢のような出来事。ROHとの合同興行ということもあってビジネス面での誤算はあったようだが、歴史的快挙といっても過言ではないだろう。そこで、しばらく休載させて頂いていた『週刊ファイト』メモリアルにおいてMSGの昔話を披露する。

 ビンス・マクマホン・シニア存命の頃はWWF(現WWE)の総本山として日本のプロレスファンにも知られたマディソン・スクエア・ガーデン(以下、MSG)。私が『週刊ファイト』特派員時代に通ったのは、1961年に米国武者修行に送り出された馬場正平、マンモス鈴木、芳の里が出場した三代目MSGではなく、70年代初めにマンハッタンの別の所(8番街、31~33丁目)に建設された四代目MSG。去る4月6日(米国時間)にオカダ・カズチカ、棚橋弘至など新日プロ勢も同会場で試合を行っている。

1978年3月20日MSGでの藤波辰巳WWWFジュニア王座防衛ジプシー・ロドリゲス戦
▼藤波MSGデビューと学生プロレスの起源『マット界の黙示録』

藤波MSGデビューと学生プロレスの起源『マット界の黙示録』

 2度にわたる大規模な改修工事によって四代目MSGのキャパはグンと落ちたが、私が取材していた頃の席数はプロレス興行で2万2292。文字通り、世界最大のプロレス会場でここで試合を行うことはレスラー冥利に尽きた。

 夏場は空席が目立つこともあったが、プロレス・シーズンとなる11月~2月は超満員札止めか、ほぼ満席。

 WWFにとってMSG興行は大きな収入源になっていると思いきや、マクマホン・シニア代表によると同団体のビッグマッチの中で1番儲からない興行とのこと。

レガシー部門殿堂入りした新間寿とビンス・マクマホンSr.が肩を組んでいる。隣はドリー・ファンクJr.、ジャイアント馬場

記事の全文を表示するにはファイトクラブ会員登録が必要です。
会費は月払999円、年払だと2ヶ月分お得な10,000円です。
すでに会員の方はログインして続きをご覧ください。

ログイン