[週刊ファイト12月6日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第51回
谷川貞治氏 ガン宣告を受けたI編集長への温かいメッセージに感謝・感激!
・私は彼の優しさと誠実さ、ノーと言えない性格が災いした
・東京入りした私にショッキングな電話が入った
・谷川氏は「ノーと言えない日本人」の典型
・谷川氏は愚痴をこぼしても悪口はいっさい言わない
96年に『格闘技通信』(ベースボール・マガジン社)の編集長から『サムライTV』の初代局長に転身した谷川貞治は、編集プロダクション経営を経て『K-1』プロデューサーに。その後、『K-1』を運営するFEGの社長に上り詰めたが、この大抜テキの裏側には“落とし穴”があったようで最後は地獄を見る羽目となった。自己責任と言えばそれまでだが、私は彼の優しさと誠実さ、ノーと言えない性格が災いしたとみている。
80年代半ば、私は『ベースボール・マガジン社』本社(東京都千代田区三崎町)前で初代『週刊プロレス』編集長の杉山さんからたまたま通りかかった谷川貞治氏を紹介された。
しかし、私は『ファイト』のプロレス記者、彼は格闘技専門誌の編集者という事もあって、その後、どこかで顔を合せることも電話で会話することもほとんどなかった。
初対面から30年余り・・・谷川氏の方から電話がかかってきたのはわずか3回。しかも3回目の電話(05年7月)は石井和義館長の指令を受けてのものだった。
「館長が編集長(私)に会いたいと言ってます。何とか仕事の都合をつけて東京に出て来てもらえないでしょうか?」
格闘技界のドンと言われる石井館長の依頼とあって私はOKするしかなかったが、アポの前日、東京入りした私にショッキングな電話が入った。I編集長(井上義啓氏)からである。