”人間台風””モルモンの殺人者”ドン・レオ・ジョナサンを偲ぶ

 ドン・レオ・ジョナサンが亡くなったとカリフラワー・アレイ・クラブ(CAC)が発表した。享年87歳。最も動ける巨人の元祖ともされ、もう少し活動期間が早ければより大きく称えられたとも論じられている。

 ”人間台風””モルモンの殺人者”がお亡くなりになった。

 筆者は1958年に初来日して力道山のインターナチョナル・ヘビー級王者にチャレンジした頃は残念ながらリアルタイムで見ることが出来なかったが、幸にもBI砲全盛時代のファイトを見ることができた。
 第12回ワールドリーグ戦が前年(第11回ワールドリーグ戦:アントニオ猪木初優勝・坂口征二凱旋帰国・ボボ・ブラジル&ゴリラ・モンスーン二大巨頭の参戦など)大いに盛り上がった流れを受け継げるよう1970年の春、大阪万博で振う年に開催された。

 前年同様、坂口征二の参戦、そして囚人男ザ・コンビクトの初来日、昨年猪木と優勝を争ったクリス・マルコフの連続参戦、加えてエースとしてドン・レオ・ジョナサンの参加が発表される。初来日の時は中耳炎、2度目の来日の42年ゴールデンシリーズでは右足首を痛めるアクシデントでインター挑戦も実現せず途中帰国となる。世界王者候補といわれる大器はこんどこそベストファイトで日本のファンの期待に答えようとの来日であった。

 そしてこのシリーズにおいて順調に外人エースとして優勝戦にまで進むのであったが、このシリーズでアントニオ猪木と素晴らしい闘いをしたことが脳裏を駆け抜けた。特にワールドリーグ戦途中における5月11日、北九州市小倉区体育館のメインにて60分3本勝負は脳裏に残る闘いであった。
 序盤戦は寝技の応酬からスタート。300ポンドのジョナサンをブリッジで支えたり見せ場をつくる猪木であったが体重で勝るジョナサンに猪木も段々とスタミナを奪われてゆく。そしてここぞとばかりスタミナ切れに思われた猪木をハイヤック・バックブリーカー(同年、3月31日のよど号ハイジャック事件に伴い名前される)でトドメを刺し、1本目をジャナサンが先取!
 二本目は馬場には負けてはいられないと一気に猪木はハッスル! 大きなジョナサンをコブラツイストで締めあげ弱ったところを大きな円を描くバックドロップで叩きつけ、二ードロップでとどめを刺す。
 3本目は逆上したジョナサンがロープで猪木の首を締め上げ、お互いリングに落ち、乱闘のうち両者リングアウト引き分けとなった。
 さすがの猪木も終始ジョナサンの大きさに手こずっていた。

 そして、5月20日、ジャイアント馬場は大阪のリングでワールリーグ公式戦でジャナサンと時間切れ引き分けとなり、ますます猪木はハッスル! 長野県体育館にてジョナサンとの公式戦を迎える。
 前回のはグランドレスリングでジョナサンの巨体に手こずりスタミナを消耗したことを反省、今回は序盤戦からトップギアーで攻めて行く。
 ショルダーブロックからコブラツイスト、そしてスラインディング・ヘッドシザーズからレッグをしつこく攻めて行く。ジャナサンは巨体に似合わずドロップキックから柔道技で反撃だ。
 さらには13回転のジャイアントスイングからボデイプレスで勝利目前までゆくが、猪木は気迫でパンチ合戦に打ち勝ちブレーン・バスターでジョナサンに勝利した。

 結局、ジョナサンは決勝戦でジャアント馬場に破れてしまったが、このシリーズにおいて大器の片鱗を日本のファンに見せれた有意義のシリーズを終えることができたように思える。その後の国際プロレス、全日本プロレスでの活躍は素晴らしかった。
 巨体ながらトンボを切り、見事なドロップキックまでできる卓越した運動神経と多彩なレスリング技術を持ち併せた本物の選手であった。
 いかんせん、本人はチャンピオンになる事には無欲で、副業である潜水業に熱心であったことが勿体ないと思われるが、本人にとっては長期遠征もなく1964年からはカナダ西部に定住。家族を大切にされた満足いくレスラー人生であっとであろう。
 ご冥福をお祈りします。


撮影・文 藤井敏之

アルゼンチン出身で巡業を共にしたパンピロ・フィルポの日本の思い出SNSより


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