[週刊ファイト8月23日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第45回
UFO設立(98年)から始まった旧・新日プロの凋落
・坂口社長、長州力らは、UFOを育てていく気はさらさらなかった
・猪木が小川に起こさせたのが橋本戦でのセメントマッチ事件
・現役を退いてもマスコミ、ファンの注目を集めたいというスター気質
・「この会社に明るい未来はない」と考えた末の決断
アントニオ猪木にとって4番目の団体「UFO」は98年4・4東京ドームでの引退マッチ(ドン・フライ戦)を終えた後、猪木自身からその構想が明かされ、同年10・24両国国技館で旗揚げ興行が行われた。新日本プロレスの別動隊のようなものだが、猪木の完全撤退を望んでいた新日プロの幹部たちにとっては迷惑な新団体設立。「本隊の活性化につながる」と言う猪木との間にズレが生じ、猪木が思い描いた新日プロvs.UFO全面戦争は不発に終わった。
そもそも猪木が道楽的にUFOを作らなければ、小川直也の暴走ファイト(99年1・4東京ドーム)、坂口征ニ社長の電撃解任(99年6月)、橋本真也の退団(02年3月)などはなかった可能性が高い。その意味で新日プロにとってUFOは疫病神以外の何物でもなかった。
坂口社長、長州力ら幹部は正面切ってUFO設立に反対しなかったものの、この新団体を育てていく気はさらさらなかった。
余分に興行経費や人件費がかかる上、UFOと交流することで本隊のストーリーラインを練り直したりマッチメークに介入されるからだ。
小川直也と長州力
事実、UFO入りした小川、藤田和之、佐山聡の給与やハワイ合宿の経費は新日プロ持ち。さらに、新日プロの営業マン(当時)である中村祥之氏がお膳立てしたUFO旗揚げ戦(98年10・24両国)は実券で約2000枚しか売れず、新日プロはその尻拭いもしなければならなかった。
新日マットの活性化どころかUFOはタダのカネ食い虫。当然、新日プロは猪木の要求や提案を突っぱねるようになり、その腹いせもあって猪木が小川に起こさせたのが橋本戦でのセメントマッチ事件だった。