[ファイトクラブ]井上譲二氏が語るマサ斎藤 米マット生活の中で大いに役立った五輪日本代表の肩書

Top photo by George Napolitano
本誌通信員ジョージ・ナポノリターノの長男グレッグ君、次男ジョセフ君とWWF時代

[週刊ファイト7月26日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼井上譲二氏が語るマサ斎藤 
 米マット生活の中で大いに役立った五輪日本代表の肩書
・米マットの主要テリトリーでトップに上り詰めたマサ斎藤さん
・もともと体育会系ですが、穏やかな人
・プライベートでは日本人のまま。ビジネス面はアメリカ人
・斎藤さんとの会話中で思い出に残っている言葉


 サンフランシスコでタッグを組んだキンジ渋谷と

 東京プロレス崩壊後の1967年に単独渡米。サンフランシスコを皮切りに米マットの主要テリトリーでトップに上り詰めたマサ斎藤さん。その斎藤さんがAWAやWWFを転戦していた頃にも取材している井上譲二氏は「米マットで成功した数少ない日本人レスラーの1人」と高く評価。本紙とのインタビューで斎藤さんとの思い出話などを語ってくれた。

(聞き手・週刊ファイト特約記者)

―― 最後にM・斎藤さんと会ったのはいつ?

井上 03年4月に東京・池尻にあったWJプロレス事務所で長州をインタビューしたときですね。昔、一緒に遊んだ仲なのに、斎藤さんはポカンとした表情で私の顔を見て何も言わなかった。その頃から斎藤さんの体調はおかしかったと思います。

――「一緒に遊んだ」とは?

井上 もう時効だから話しますけど、80年か81年、AWAがラスベガスの『ショーボード』というホテル&カジノで定期興行を打ってた頃に一緒にギャンブルをやったのです。他のカジノに行って。やったのは1番勝率が低いと言われるブラックジャック。で、斎藤さんが先にスッテンテンになったので300㌦渡したら小切手をくれた。ところが、私はその小切手を飛行機の中で失ってしまったんです。すぐ斎藤さんに電話して「止められないか?」と聞いたら、「できないよ」。でも、いま思うとアメリカの銀行に口座を持っていない私がその小切手を現金化できたのかな? と。大金じゃないのですぐ諦められけど。あと、ミネアポリスやニューヨークでは食事しただけですよ。

2011年リユニオンでのマサ斎藤、ハーリー・レイス、アイアン・シーク Photo by Mike Lano

―― 普段の斎藤さんはどんな人でした?

井上 もともと体育会系ですが、穏やかな人でしたね。ヒロ斉藤を手加減なしのキックで負傷させた橋本を長州と一緒に暴行を加えた(87年6・3西日本総合展示場)のは例外で、すぐキレるタイプじゃなかった。

―― そう言えば、前田が長州の顔面にキックを放って試合がグシャグシャになったときは冷静に試合を処理していました。

井上 斎藤さんが高田をロープに振ってラリアート。スリーカウントが入って試合が成立しましたよね。普通、弟分の長州がやられたらキレますよ。

―― ガチンコで闘った場合の斎藤さんの実力は?

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