[週刊ファイト5月12日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼井上譲二の『週刊ファイト』メモリアル第42回
イチャモン、えん罪と判断できる新日プロの週プロ取材拒否(96年)
・『週刊プロレス』に対する新日本プロレスの取材拒否は回避できた
・週プロの販売部数は元の数字に戻らなかった
・取材拒否の本当の理由は記事プラス・アルファのアルファのほうにあった
・ターザン山本氏は珍しいくらい人を恨まない性格
ジャイアント馬場急逝、アントニオ猪木引退、小川直也の暴走ファイトなど90年代後半のマット界にはショッキングな出来事が多かった。いずれも業界にとってマイナスにしかならないものだが、十分回避できた事件もあった。『週刊プロレス』に対する新日本プロレスの取材拒否(96年3月)がそれである。私から見て新日プロ側に正当な理由はなかった。あったのは山本隆司編集長(当時)への長州力&永島勝司氏の個人的な怨念だけである。
週プロを取材拒否した長州力、永島勝司氏
06年9月に休刊になった『週刊ファイト』の膨大な写真資料は翌07年、IGFの親会社(当時)『ジ・コミニケーション』にわずか100万円で売却された。人伝てに聞いた話では同社は愛知県内に“A・猪木記念館”を建設するプランを立てており、それに写真を活用するとのことだった。
しかし、このプランは1年も経たないうちに頓挫。『ファイト』の写真は現在、『週刊プロレス』を発行する『ベースボール・マガジン社』(以下、B・M社)が所有している。常識的に考えて『ファイト』の10倍くらいの写真資料を持つB・M社がジ・コミから買う理由はまったくない。
私が思い当たる理由は2つ。IGFから撤退して使い道がなくなったジ・コミが叩き売りしてきたこと。もう1つは新日プロから取材拒否を通告された96年3月から約5カ月間、新日プロの試合を撮影できなかったことだ。
ただ、B・M社にとって、その時期の写真資料が欠けていることはちっぽけな問題。取材拒否以降の販売部数暴落による損失額は莫大だった。
取材拒否中はライバル誌の『週刊ゴング』に部数を逆転され、取材解禁後に再逆転したものの、販売部数は元の数字に戻らなかったという。正確な数字は分からないが、1週あたり数万部と推定されている。
ターザン山本氏