[ファイトクラブ]借金王から伝説へ:安田忠夫さん逝く 大晦日の衝撃再び

[週刊ファイト2月19日]期間 [ファイトクラブ]公開中

▼借金王から伝説へ:安田忠夫さん逝く 大晦日の衝撃再び
 編集部編
・超人イリエマン 追悼
・元小結・安田忠夫さん逝去プロレス界・ネットで衝撃と惜別
・大相撲「孝乃富士」から小結へ、1993年の新日本入門
・世紀の番狂わせバンナ戦とIWGPヘビー級王座初戴冠から引退へ
・「俺はケチじゃないぞ」最後に残った言葉が示す、不器用な優しさ


▼故・橋本真也に関する告白と懺悔 ~十数年前の隠された真実~

[ファイトクラブ]故・橋本真也に関する告白と懺悔~十数年前の隠された真実~

相撲取りから、格闘技転向組の末路は予後が良くない。

力道山さん、北尾さん、泉田さん、曙さん、戦闘竜さん、今回の安田忠夫さん。

悲惨な老後の人が沢山いると聞く。

故人のご冥福を、心よりお祈りしています。

超人イリエマン

元小結・安田忠夫さん逝去プロレス界・ネットで衝撃と惜別

 元大相撲小結・孝乃富士であり、新日本プロレス、総合格闘技の舞台でも活躍した安田忠夫さんが、2026年2月8日頃に都内自宅で亡くなっていたことが2月10日に判明した。享年62。死因は公表されていない。
 新日本プロレス公式が最初に訃報を発表し、スポーツ各紙やテレビ局が一斉に追悼記事を配信。ネット上では衝撃と悲しみが一気に広がった。

 SNSで最も多かったのは、「62歳は早すぎる」という声である。

 「人生100年時代にまだ半分なのに」「若すぎる」「信じられない」といった投稿が相次ぎ、波乱万丈の人生を振り返りながら惜しむコメントが溢れた。借金問題や“借金王”という異名も含めて語られつつも、「それでも憎めない」「愛されキャラだった」という評価が圧倒的である。

 象徴的に語られたのは、2001年大晦日のINOKI BOM-BA-YEでのジェロム・レ・バンナ戦だ。

 「世紀の番狂わせ」「あのギロチンは伝説」「大晦日格闘技の歴史を変えた一戦」といった回顧投稿が大量に拡散。娘を肩車したシーンや「燃えよ荒鷲」の入場映像も再共有され、当時を知るファンが改めてその価値を語った。
 海外からも追悼の声が届き、国際的な広がりを見せた点も印象的である。

 また、人柄に関する証言も数多い。

 「借金王だけど優しかった」「現場で慕われていた」「後輩思いの兄貴分」「迷惑をかけない生き様だった」など、実際に接した人々からの投稿が目立つ。警備員時代の同僚や関係者からも温かい思い出が語られ、単なる破天荒なレスラーではなく、人間味あふれる存在だったことが浮かび上がった。

 プロレス界も即座に対応した。

 新日本プロレスは2月11日の大阪大会で追悼10カウントゴングを実施。「燃えよ荒鷲」が流れる中、選手がリングサイドに整列し、その功績を称えた。この演出に対し、「新日本らしい送り方」「安田さんへの最大限の敬意」といった賛同の声が広がった。

 旧知のレスラーや関係者もSNSで次々に哀悼を表明し、業界全体が一体となって故人を偲ぶ空気が生まれた。

 掲示板などでも大きな炎上や批判は見られず、「バンナ戦は永遠に語り継がれる」「猪木軍団の象徴の一人」「人生が映画のようだった」といった懐古と敬意の書き込みが中心。過去スレッドが掘り起こされ、伝説的試合の動画やエピソードが再共有されるなど、追悼の波は静かに広がっている。

 相撲からプロレス、総合格闘技へ。栄光と挫折を繰り返しながらも、常に物語を背負ってリングに立ち続けた男であった。その人生は、良くも悪くも“劇場型”であり、多くのファンに強烈な印象を残した。

 62歳という若さでの別れはあまりにも早い。だが、2001年の大晦日に見せたあのギロチンチョークと、娘を肩に乗せた姿は、格闘技史の中に確かに刻まれている。

 安田忠夫さんのご冥福を心よりお祈りする。

大相撲「孝乃富士」から小結へ、1993年の新日本入門

 元新日本プロレスのプロレスラーであり、大相撲や総合格闘技でも活躍した安田忠夫さんが2月10日までに亡くなっていたことが報じられ、年齢は62歳であったという事実だけでも胸が詰まるが、死因等は不明で関係者によると自宅で亡くなっていたとされ、さらに「こんなに生きるつもりはなかったのに」と語っていたという側面まで伝わると、本人の人生観と現実の結末が交差して、重い沈黙だけが残る。

 新日本プロレスも発表の中で「謹んで、安田忠夫さんのご冥福をお祈りいたします」と悼んだとされるが、その言葉の定型さえ、安田忠夫という人間の濃度の前では追いつかないほどであり、訃報がもたらしたのは喪失という感情だけではなく、あの人は何を背負い、何を守り、どこに辿り着いたのかという問いそのものだったのである。

 安田さんは1963年10月9日、東京都大田区出身で、大相撲では九重部屋に入門し1979年(昭和54年)3月場所で初土俵を踏み、四股名「孝乃富士」として小結まで昇進した。

 若手の頃には同部屋同期入門の北勝海信芳、双羽黒(北尾光司)、寺尾常史、琴ヶ梅剛史、小錦八十吉らとともに「花のサンパチ組」と呼ばれたというが、この呼称が象徴するのは単なる同世代の括りではなく、土俵という苛烈な環境で揉まれた身体と精神が、その後の転身人生の基礎体力になっていたということでもある。1992年(平成4年)5月場所を最後に28歳で廃業したとされるが、相撲のキャリアがそこで終わったのではなく、むしろ「戦い方を変えて生き延びる」長い第二章の起点になったと捉えるべきだろう。

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