ケン・片谷『メシとワセダと時々プロレス』㉟ 2つのCMA[ファイトクラブ]旗揚げ東京国際フォーラム8000人 男色ディーノ団体デビュー

[週刊ファイト4月5日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼ケン・片谷『メシとワセダと時々プロレス』㉟
 2つのCMA 中京格闘技連合と東京支部CMAプロレスリング
・国際プロレス・プロモーションなどで活躍していたトウカイブシドーとの出会い
・「ミノワマンと同じ団体です」Chukyo Martialarts Association
・旗揚げ大会は東京国際フォーラム8000人のからくり
・男色ディーノの団体デビューはCMAプロレスリング
・ケン・片谷「生涯CMAプロレスリング所属」宣言
・2010年4・10トウカイブシドー引退デビュー15周年記念大会「BRIDGE」北沢タウンホール


CMAから派生したCMA!? 2つのCMAの謎とは? ケン・片谷とミノワマンの共通点とは?
旗揚げ戦の観衆はなんと8000人! これは紛れもない事実です!

人から所属団体名を聞かれた時や、プロレスにあまり詳しくない人に団体名を説明する時「CMAプロレスリングのケン・片谷です。」と言ってもなかなかピンと来てくださる方はいません。ですので、最近は決まって「ミノワマンと同じ団体です。」と答えるようにしています。そうすると、たいてい「あぁ、あのミノワマンね。」という答えが返ってきます。
厳密に言うと、現在は実際にミノワマン選手と共に活動しているわけではないので、突っ込みたくなる方も多いと思いますが、これがまんざら嘘ではないのです。

そこで今回は、“2つのCMA”についてお話します。

プロデビューからしばらくの間、オイラは所属団体を持たず“フリー”として活動していました。しかし、無名の新人レスラーがフリーで活動するには正直限界があります。自分自身のプロモーションや、対外的なことを考えると、やはり団体に所属していた方が何かと有利です。

これまで、数々の団体の門を叩いては、団体が消滅してしまったり、様々な諸問題が発生したりと、半ば放浪状態のうちにフリーとしてプロデビューしたわけですが、やはりバックボーンが欲しいなと常々考えていました。そんな矢先、ある団体の所属にならないかという話が舞い込んできたのです。

きっかけは、当時国際プロレス・プロモーションなどで活躍していたトウカイブシドーに出会ったことでした。
トウカイブシドーとは、格闘技の道場で知り合いました。体は小さいながらも、身体能力に長けており、空中戦から総合格闘技までこなす万能選手です。

ブシドーと出会った頃、ちょうど彼は“新団体”の立ち上げを企てていました。
彼は団体間のしがらみを避け、フリーの選手を中心に声を掛けていたところ、時を同じくして所属団体を探していたオイラと出会い、お互い相思相愛となったわけです。

元々ブシドーは、『CMA』の所属でした。CMAとは、中京格闘技連合(Chukyo Martialarts Association)の略(現在は=Central Martialarts Association)で、その名の通り愛知県岡崎市に本部を置いています。トウカイブシドーのリングネームも“東海地区”から由来したものです。

代表的な所属選手には、旧ユニオンプロレスなどで活躍した宮本猛選手や塚田敬選手がいます。両者の対戦は、“インディーの名勝負数え唄”と言われていました。
それぞれ、空手とボクシングがベースであることで知られるように、CMAは格闘技色の強い団体です。
空手や総合格闘技が主体で、その中に男女プロレスがコラボレーションしたような興行をよく行っていました。

トウカイブシドーはそこに着目しました。格闘技色の強いCMAとの差別化を計るために、“プロレス部門”を独立させようとしたのです。そこで東京に事務所を構え、CMAプロレスリングを立ち上げたのです。
混乱を避けるためにあえて言うなら、CMAが“本店”なら、CMAプロレスリングは“支店”といったところでしょうか?

冒頭に登場したミノワマンこと美濃輪育久選手もCMAの出身です。便宜上「ミノワマンと同じ団体です。」と言っていますが、広い意味で嘘ではないということがお分かりいただけたでしょうか?

言わば、CMAからのれん分けした形でスタートしたCMAプロレスリングでしたが、その前途は多難でした。
所属選手はわずか6名。ブシドーとオイラ以外はプロレス経験の無い新人です。オイラにしてもまだデビュー半年ほどの半人前なのに、いきなり団体のナンバー2を仰せ付かることになり、その重圧たるや半端ではありませんでした。

筆者、梅沢菊次郎、トウカイブシドー

問題となるのは練習場所です。当時から、都内でリング練習ができる場所を探すのはなかなか困難でした。ある時は千葉県長生郡のSPWF道場まで、またある時は中野のSODビルまでリング練習に行きました。それでも、なかなか自由にリングを使わせてもらうことはできません。そこで、月に一度はCMA本部道場のある愛知県岡崎市まで出稽古に行っていたのです。

ブシドーの車に、大男が6人もひしめき合ってのロングドライブは、ある意味練習よりもキツかったです。それも、時間を有効に使うためと経費を浮かせるために、深夜出発して朝から練習が行えるよう日程を組むのです。
当時を思い出すと、まぁ若かったせいもありますが、よく重大な事故に繋がらなかったなとヒヤヒヤすることがあります。

それでも、“自社”のリングは使い放題ですので、思うがままの練習をすることができました。経験の少ない我々にとって、リング練習が何よりスキルアップへの近道でした。
先述のように、若さも手伝ってとにかくがむしゃらでした。ようやく自分のホームタウンができたのです。吸収力も一番あった頃だったと思います。思いっきりプロレスができる環境で、自分自身日々成長していくことができました。

幸いにも“プレ旗揚げ戦”の日程がトントン拍子で決まりました。団体としての基盤が不十分でしたので、正式な旗揚げ戦はまだお預けです。

しかし、そのプレ旗揚げ戦の舞台がスゴかった! 会場はなんと有楽町の東京国際フォーラム。観衆は驚愕の8000人(主催者発表)です!
翌日のスポーツ紙に試合結果が掲載されると、多くの方から「観衆の数、間違ってるよね?」と指摘されました。いえいえ、そんなことはありません。実際に8000人の入場者がいたのです!
今やプロレス興行で、一桁少ない800人でも動員するのは難しいのではないでしょうか?

プロレス団体としては赤ん坊に等しいCMAプロレスリングが、大会場で8000人の入場者を集めた事実。
そのカラクリはこうです。

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CMAプロレスリング:ケン・片谷 トウカイブシドーGL 男色ディーノ 梅沢菊次郎

実はこの日の興行は、あるゲーム雑誌が主催するゲーム関連のイベントとのコラボレーションでした。そのイベントの入場者数が8000人だったのです。
ただ、会場の真ん中にリングを組み、8000人の観衆の前で試合をしたことに間違いはありません。その中にプロレスファンがどれだけいたかは定かではありませんが、我々の試合が8000人の目に触れたということは紛れもない事実なのです!

確かに、入場者のほとんどはゲーム目当てのお客さんだったかもしれません。それでも我々は、この日大きな収穫を実感しました。
というのも、旗揚げ当初からの我々の第一目標は、これまでにないファン層の新規開拓。つまり、これまでプロレスを観たことがない、あるいはプロレスに全く興味のなかった人に、生でプロレスを観ていただくチャンスを得たというのはとても大きなことだったのです。

試合も、とても“分かりやすい”ものにしました。表現が良いか悪いか分かりませんが、ヒーローが悪を倒す、我々が子どもの頃に観た怪獣映画や特撮ヒーロー物の、『勧善懲悪劇場』を目指したのです。
実は、それこそがかつて隆盛を誇った古き良きプロレス。猪木さんがシンを倒し、馬場さんがブッチャーを倒したあのプロレスがそこにはあるのです。

梅沢菊次郎(退団)、筆者、春風亭傳枝(でんし)リングアナウンサー

今だから話しますが、この日オイラは素顔のベビーフェイスとマスクマンのヒールの二役で、2試合に出場しました。えっ!? 別に驚かないって(笑)? 所属選手が少ないわけですから、現状の人員で“かさ増し”しなければなりません。団体内で一番体のデカかったオイラは、ヒールにもってこいだと重宝されていたのです(笑)。つまり、当時からヒールの要素はあったのかもしれませんね。

どの団体にもありがちですが、選手の入れ替わりが激しいのがこの業界の常です。
その後、トウカイブシドーは引退し、他の4選手は引退または他団体へ流出しました。旗揚げメンバーで残っているのはオイラただ一人です。
もちろんその間入団してきた選手も何人かいました。現在、DDTの主力として活躍している男色ディーノも、実はウチ(CMAプロレスリング)からデビューしたんですよ!

初代代表であったトウカイブシドーが引退した後、団体を畳むことも考えました。しかし、CMAのブランドには人一倍愛着がありましたし、たとえ一人になろうとも守っていかなければならない責任感のようなものも感じていました。
あとどのくらい現役を続けられるか分かりませんが、生涯CMA所属を貫いていきたいと思います。

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2010年4月10日トウカイブシドーのデビュー15周年記念&引退大会「BRIDGE」北沢タウンホール