[ファイトクラブ]組織分裂の歴史は繰り返すか?~プロレスと大相撲~

[週刊ファイト12月28日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼組織分裂の歴史は繰り返すか?~プロレスと大相撲~
 by  立嶋 博
・猪木の「クーデター前史」 ~テレビは人に蛮勇を強いる
・猪木「不発のクーデター」は、結果的に成功していた?
・あまりに似ている?「あの頃の猪木」と「今の貴乃花」
・貴乃花の「相撲道」と「大相撲が築いてきたもの」は一致しない。
・相撲協会が最も怖れるのは八百長問題の再燃!反社会性の露呈
・実は相撲協会は一度分裂していた!昭和初期の大事件


 我が高校時代の恩師は、貴乃花親方の妻・花田景子の師でもある。
 高校演劇界にその人ありと知られる我が恩師は、二人の披露宴に招かれた際、大銀杏の新郎に向かって大胆にもこのように問うたそうだ。

「あなたはどうして、いつもそのように表情のない顔でいるのか?まして今日は披露宴だというのに」

 恩師によれば、この無遠慮な質問に対して、横綱はにわかに微笑を湛えてこう答えたという。

「小さい頃からずっとテレビカメラに追いかけられていましたので。何をするにもカメラがあるから、考えていることが読み取られないようにしようと思って構えていたら、いつの間にかこんな顔になってしまったのです。申し訳ありません」

 プロレス、空手、剣道、古くは柔術、ボクシングなど、格闘を行うジャンルを統括する団体は分裂と合体を繰り返してきた。否、野球、バスケットボール、モータースポーツといった成熟したジャンルでも、そうしたことはしょっちゅう起きている。

 一定期間、それなりの組織を運営していれば、どこかになれ合いと相克が起こり、それが派閥を生み、最終的に分裂にまで至る。それは自然なことで、仕方がないことである。生きとし生けるものに永遠の命がないのと同じように、永久不滅、不変の組織体など存在しない。

 相撲協会は今、まさに分裂の危機に直面しているように筆者には見える。しかし、それを指摘する者は少ない。
 日本のプロレス団体が過去、どのように離合集散を行ってきたかを考えてみれば、日本相撲協会だけが分裂の危機を常に完全に回避することができる、世界でも稀な組織であるはずがないことは容易に知れる。

 貴乃花親方と日本相撲協会の対立は極めて深刻だ。
 少なくとも今の相撲協会は、栄華を誇った日本プロレスから、のちの新日本プロレス一派が生成していったあの時期程度には、危機を迎えているように思われる。筆者に事態を煽り立てる意図はないが、貴乃花主導による協会分裂の可能性について一応考察しておくことは、今後のために無駄ではないだろうと思うのである。

 猪木の「クーデター前史」 ~テレビは人に蛮勇を強いる

 はじめに、アントニオ猪木が日本プロレスを追われ、新日本プロレス旗揚げに至った経緯について、今一度おさらいしておこう。

 それまで日本プロレスのテレビ中継は、主として日本テレビによって金曜20時台に行われていたが、1969年7月からはNET(現・テレビ朝日)も水曜21時台で中継するようになった。
 当初の番組名は「NETワールドプロレスリング」であった。

 これが実現した背景は国プロを追われたグレート東郷が旧知のルー・テーズを担いで新団体設立を企み、NETに対して中継放送の売り込みを図ったことにある。これを妨害するため、日プロはNETに興行の中継権を付与して東郷を排除するとともに、既得権を有する日本テレビを交えて調整を行った。
 その結果、ジャイアント馬場と坂口征二の試合、及びインター王座戦、ワールドリーグ公式戦は日本テレビが独占中継することとなり、テレビ朝日は二番手であるアントニオ猪木をトップとして番組を成立させる形に落ち着いた。
 平たく言えば、猪木は日本テレビにもNETにも出られるが、馬場は日本テレビが囲い込む、ということである(当時の猪木はこのやり方について、社内に派閥を作る構造だとして反対していたとされ、事実、時と共に日本プロレスは「馬場・日テレ派」と「猪木・NET派」とに分断されていくのであるが、のちの新日本プロレスとテレビ朝日の関係を考えれば、結果的にはこの苦肉の措置が、未来の猪木自身を救ったようにも思われる)。

 NETはのちに放送時間帯を月曜日20時台に移動、実況生中継も行うとともに、坂口の試合やワールドリーグ戦も手掛けるようになった。
 また、本稿では特に触れないが、所属選手にもかねてから猪木寄りの者と馬場寄りの者がいて、心情的な対立もあった。ともかく団体分裂の素地は、この頃、着々と作られていたのである。

 日テレの画面では無敵の「BI砲」の一角として馬場に次ぐ人気を集めていた猪木であるが、1971年になって馬場への挑戦をぶち上げる。
 当時の試合映像からは、猪木がタッグ戦の定石通り、スターの馬場の引き立て役として気を遣った試合を強いられていた様子が見てとれ、NETのエースとしてはフラストレーションが鬱積していたはずである。
 そうは言っても、当時の日プロでは前座を除いて日本人対決を行っていなかった。ファンの嗜好も依然として「日本人×外人」のシンプルな構図にあったし、力道山と木村政彦の一件を経て、裏の事情も含めて日本人対決をタブー視していたからである。つまり、猪木がいかに大声で吠えようと、日プロはそれに応えようがなかったのだ。
 そうしたオフィスの事情は理解しているにもかかわらず、猪木が唐突に牙を剥いてみせたのは、その辺りが忖度できないNETサイドに、この挑戦劇をデザインして猪木の背中を押す者がいたからではないかと想像される。

 NETは、貴重な看板番組として「二番手のプロレス中継」からの脱却を図る必要に迫られて、ここらで世間に強烈なアピールを行って猪木を一躍スターダムに押し上げておきたかったのだろう。抗争の経過によっては馬場を自社の画面に引きずり出せるかも、という能天気な計算もしていたかもしれない。
 筆者が考えるに、猪木自身は、馬場との抗争は遠い将来のビジョンとして、さしあたっては格上げのための話題作りができたら、というくらいの気持ちだったのではないか。
 この時のNETが、そうした内心の願望を肥大化させ、具体的な行動に踏み切らせるために猪木をあれこれ焚きつけて、世間に向けてラッパを吹き鳴らすよう仕向けたのだとすれば、今でも続く猪木のアドバルーン癖が生まれたきっかけについても、収まりよく説明できるように思われる。70年代のテレビマンたちは、そういう無茶なものも短期に醸成してしまえるアナーキーなエネルギーに満ちていた。

 このアピールは結局、「コミッショナー裁定」という体裁で幹部にいなされて終わるが、猪木と日プロとの確執は深まり、社内の分断はいっそう明確になっていく。

 猪木「不発のクーデター」は、結果的に成功していた?

 猪木は次に、会社の支配権を握ることを企てる。
 猪木は既に日本プロレス内で一定の権力を有してはいたが、横領が日常化した不明朗な経営体質、裏社会との関係、硬直化した試合内容、そして自らの扱いについても不満を抱いていた。
 そこで選手会の力を利用して現経営陣を退陣させ、BIを中心とした新経営陣を編成して再建を図る青写真を描く。
馬場も現経営陣の排除には賛同していたが、猪木とそのブレーンが提示してきたこの再建案(クーデターというより、猪木一派による実質的な会社乗っ取り計画に見えたという)に不審を抱き、最終的には守旧派幹部に計画を通報することを決断する。

 そして同年12月、猪木は頼みの選手会を除名され、日プロも追放。翌年になって少数の同志のみを連れて新日本プロレスリングを旗揚げし、新妻の倍賞美津子と共に苦難の道を歩みだすことになるのである。

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