[週刊ファイト3月30日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
『週刊ファイト』の39年の歴史の中で最も売れたのは、新日本プロレスの第一期黄金期にあたる1981~83年。この時期、発行部数は飛躍的に伸びていった。
その最大の要因は新日プロ中心の編集方針だが、やはり初代タイガーマスクの出現(81年4月)が1番大きかった。まさに、「タイガーマスクさまさま」なのだが…。
by 井上譲二
『週刊ファイト』の発行元である新大阪新聞社は80年代初め、旧社屋をそのまま残し四ツ橋筋(大坂市西区)の1等地に8階建ての自社ビルを建てている。
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投資目的もあったようだが、このとき、取引銀行の三和銀行から巨額の融資を受けられていたのは80年代頃から『ファイト』の売り上げが右肩上がりに上昇していたためだ。
67年3月の創刊以来、赤字になったことはなかったものの、『ファイト』自体が本格的に利益をもたらせるようになったのはこの頃からである。
そして、初代タイガーマスク出現から1年が経った翌82年。『ファイト』の売り上げはピークに達した。
『ワールドプロレスリング』の視聴率は20%超まで急上昇。エース猪木抜きで開催された『第2次サマーファイト・シリーズ』は全大会が満員もしくは超満員札止めとなった。
「天井知らず」という言葉があるが、当時、新日プロにも『ファイト』にもそれくらいの勢いがあった。
社員の給料、ボーナスは大幅アップ。社内におけるI編集長(常務取締役)の発言力もさらに強まった。まさにわが世の春を謳歌していたわけだが、翌83年に2つの大誤算が生じる。