[ファイトクラブ]追悼!ジミー・スヌーカ32年後のコールドケース第三級殺人罪再考と名誉回復

[週刊ファイト1月26日号]
▼追悼!ジミー・スヌーカ
 32年後のコールドケース第三級殺人罪再考と名誉回復
 by タダシ☆タナカ
・ポーランド”岩石男”イワン・プトスキー人気と当時のMSG定期戦
・2015年9月、第三級殺人罪の審判が下ったがすでに痴呆症状態
・米国人気TVドラマの影響なのか!? 裁判記録からも真相は藪の中
・たらねばは禁物も、事件のせいで日本に主戦場を移したスヌーカ
     
 かねてより胃がんで闘病中だった、世界中のファンに”スーパーフライ”としてお馴染みのジミー・スヌーカさんが現地時間1月15日に亡くなられた。73歳だった。第一報は、2015年7月の日本公演にも急遽来日も果たした娘タミーナ・スヌーカのInstagramからだった。誰もがネットに業績なり追悼を書き込める時代、ブルーザー・ブロディとのタッグでの活躍や新日本プロレスの決勝戦ボイコット事件などは他に任すとして、本誌としては[マット界舞台裏’13年06月20日号]、さらに殺人事件裁判の審判が下された[マット界舞台裏’15年9月10日号]で取り上げていることと、筆者自身が事件のあった1983年、ニューヨークMSGの定期戦リングサイドにて毎月レポートを発信していた時期の出来事であることから、いかにしてニュースが広まったかの現場記者の当時の真実を交えて、あらためて32年後のコールドケースについて考えてみたい。
 2016年、WOWOWが米国人気ドラマ『Cold Case』の日本版を、吉田羊の主演で『コールドケース 〜真実の扉〜』としてリメイクしていたが、アメリカでは第一級殺人罪には公訴時効はない。「プロレスラーでもあった」と記しておかしくないドナルド・トランプ(70歳)が、本当に合衆国大統領になるというのが未だに信じられない思いだが、ジミー・スヌーカさん追悼をやるなら、名誉回復がないまま「最後は殺人事件で有罪」の記録だけが独り歩きするのは好ましくない。右に倣えで誰かが”飛獣”と書けば、当時は余り使われなかった呼称なのに安易にそれを使うネット媒体に異を唱えるためにも、現場記者インサイダーとして重厚な回顧を試みたい。

マネージャー役のバディ・ロジャース あしり日のナンシー・アルゼンティーノさん

 1983年5月11日早朝、WWWFのTV収録拠点ペンシルバニア州アレンタウンのハワード・ジョンソン・モーテルで、ジミー・スヌーカのガールフレンドだったナンシー・アルゼンティーノさんが亡くなった。10日のTVマッチが終わってスヌーカが部屋に戻ると、鼻と口から黄色いゲロを吐いたままうずくまっているナンシーさんを発見、慌ててホテルのフロントに電話して救急車が呼ばれたが、搬送先病院で死亡が宣告された。頭をぶつけたことによる事故死として扱われたものの、当時から「スヌーカがぶん殴って殺した」という噂は流れていたものだ。というか、それを最初に流したのは、毎月リングサイド筆者の隣で撮影していたビル・アプター記者だ。インターネットどころの騒ぎではない、家庭用FAXすらまだ普及してなく、無理に買っても1枚送る読み取り時間がかかり国際電話代が高すぎた。筆者は36枚撮りフィルムの現像しないままのロール3-4個と、原稿用紙に手書きした記事を、その晩のウチに24時間開いている中央郵便局から速達で日本に送っていた原始的な時代である。

 今のように、訃報があれば瞬時に世界が知るSNS拡散の様相とは、時代背景がまるで違うことをまず頭に入れて欲しい。また、筆者の強い確信として、当時、世界で最も人数も予算もかけてプロレスを報道していたのは日本である。本国アメリカといっても、種類こそ『Inside Wrestling』以下、いろいろあったように見えるのだが、いったん内情を知ってしまえば、焼き直しの焼き直しみたいなのを延々と出し回しているだけで、表紙が違うも中身は同じものばかり。そのビル・アプターの所属するロンドン・パブリッシング社にせよ、現場回りのアプターと、スチュワート・サックス主幹の2名がいるだけで、あとはバイト君の参加はともかく、取材体制は日本のほうが圧倒的だった。

 筆者は、当時ロングアイルランドにあった拠点にも遊びに行っている。『週刊ファイト』、『ビッグレスラー』を経て、この”編集部訪問”はターザン山本現・本誌顧問が東京に移ったので、『デラックスプロレス』に掲載された。そこまで関係を築いた日本のマスコミは私だけだ。残念なことに、中身のインチキ加減は、もう時効だから書いて構わないのだろうが、酷いなんてモンではなかった。だいたい、その速達で送った筆者の記事と写真が世界で最初に出るMSGレポートであって、英語のは印刷に時間がかかるとの理由から、かなり遅れて出るのみならず、とても同じ大会を横で見たと思えないデタラメのオンパレードだった。ネットのない時代、団体からの公式結果発表などというものはそもそも存在しない。エンタメ大会を楽しんでそれでお終いなのがニューヨークの流儀。誰も試合時間など計っておらず、日本人記者間の談合であくまで日本向きに適当な時間を決めて、それをメモ帖に残して各自が送っていただけなのだ。もう時効なのだから許してもらえるだろうか。

 プロレス報道の現実と実態と言ってしまえばそれまでだが、今でこそ、マスコミ大御所のビル・アプター先生というレジェンド扱いなのは苦笑いするしかない。そんな米国の専門誌をありがたがって、翻訳して嘘記事を書いている日本のライターもいて、現場の渦中にいる筆者などは不審を募らせたものだ。やがて、ビンス・マクマホン・ジュニアは東部地区のローカル団体から全国侵攻を開始、『レッスルマニア』を成功させてて天下盗りに動くことになるが、一方で公式マガジンを発行するからと、ビル・アプターも、ライバル誌のジョージ・ナポリターノ記者もリングサイドから締め出されてしまう。WWF全国侵攻こそファンタジー活字系専門誌の歴史回顧にも載っているが、広報とマスコミのコントロールが始まった裏面史は、また別の機会に掘り下げさせていただく。

 さて、その全国侵攻の主役ハルク・ホーガンは、新日本プロレスではすでにスターになっていた時期だが、東部ローカル団体の興行上の主役はジミー・スヌーカだ。この絶頂期にナンシーさん死亡事件は起こった。ボブ・バックランドが王者だったが、新間寿WWF会長がアマレス出身の本格派が好みなこともあって新日でこそプッシュされていたが、現地ではさっぱりの不人気であり、イタリア系の英雄ブルーノ・サンマルチノこそすでに実質引退していたが、相変わらずMSG集客の軸は民族の代表がベビー・フェイスという図式である。今回の記事をあらためて執筆するに際して、物置のどこかの箱に昔のパンフとかないか探したが結局見つからず。ただ、たまたま以下のポスターが本誌通信員マイク・ラノから送られてきた。

ポーランド出身”岩石男”イワン・プトスキー人気と当時のMSG定期戦

1982年12月5日コネティカット州ニューヘイブン・コロシアムのポスター 井上譲二、タダシ☆タナカ記者らが現地取材していた時期で、ボブ・バックランドと金網抗争していたスヌーカがメイン。前座には佐山タイガー・マスク、エディー・ギルバートもラインアップされているが、カート・へニングはMr.パーフェクト変身前のグリーンボーイで、親のコネで仕事貰えただけの余りの下手さに「成功は無理」と活字にしていたものだ。

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