[ファイトクラブ]『週刊ファイト』メモリアル第3回 I編集長が馬場でなく猪木を“選択”した本当の理由

[週刊プロレス10月06日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

 かつて『週刊ファイト』ほど新日プロ寄りのメディアはなかった。このためジャイアント馬場をはじめ全日プロ関係者から嫌われるだけでなく一部の全日ファンに不買運動を起こされたこともあった。では、なぜ、I編集長は新日プロに偏った編集方針を貫いたのか?
* * *

by 井上譲二
 かつて馬場・全日本プロレスと『週刊ファイト』の不仲はプロレス業界であまりにも有名だった。不仲と言うよりも、ジャイアント馬場ら上層部の人たちが井上義啓編集長(以下、I編集長)を毛嫌いしていたと言ったほうが正しいかもしれない。
 1972年にアントニオ猪木と馬場がそれぞれ新日プロ、全日プロを旗揚げ。当初、両者は良好な関係を保っていたが、日プロ・クーデター計画が未遂に終わったことで馬場に恨みを持つ猪木の馬場批判が次第にエスカレート。それを他紙(誌)よりも大きく取り上げたI編集長は必然的に敵ガイ視されるようになった。
 私が『ファイト』の外部スタッフとして全日プロや新日プロ、国際プロの会場に出入りするようになったのは73年頃だが、「I編集長の子分」ということで当然、私に対する馬場らの風当たりは強い。ある時、姫路大会の控室で国際プロとの関係について質問すると、「ここから出て行ってくれ」と言われた。
 私がまだ新米記者だったことと、馬場が政治的な質問を嫌うこともあったと思うが、東スポや『月刊ゴング』の若い記者が同じ質問をしていたら馬場はそれほどむくれていなかっただろう。
 加えて、TVマッチが行われる全日プロの控室に入って行くと、全日プロ勢のみならず日テレ関係者や、“馬場派記者”たちの冷たい視線が私の体に突き刺さった。それは77年に『ファイト』の正社員になってからも変わらず、実況アナのKやTV解説者のYに悪口を言われることもあった。

記事の全文を表示するにはファイトクラブ会員登録が必要です。
会費は月払999円、年払だと2ヶ月分お得な10,000円です。
すでに会員の方はログインして続きをご覧ください。

ログイン