腐れ縁なる表現がピッタリの怪しき怪人ウォーリー山口との出会いと別れ~連載復活『寺内1/2兵衛のviva素晴らしきプロレス』

『レッスルマニア』直前アメプロ強化月間:寺内1/2兵衛のviva素晴らしきプロレス第2章#10

 腐れ縁という表現がピッタリの、怪しき怪人ウォーリー山口との出会いと別れでは無く自然消滅・・・。初公開秘話満載でお届けする、とっておきの話パート7です。

 プロレス業界でお世話になり、道筋を開いてくれた人達は何人もいるが、どうしても忘れられない付き合いをしたのはずばり3人。1人は、元月刊と別冊のゴング編集長の竹内さんと元別冊ゴング編集長のドクトル・ルチャこと清水さん。そして今回登場のウォーリー山口。出会いからもう35年の歳月が経ってしまった。
 2010年7月19日に清水さんと19年振りに『Lucha Fiesta』後楽園ホール大会で偶然再会出来て、竹内さんとは9年前に東京ドームホテルの1階ラウンジで3時間もコーラとグレープフルーツジュースで語りあったが・・・。
 ウォーリーとは竹内さんと同じ時期の2003年10月に当時六本木のスポーツバー「ピーク」の店長を務めていた僕が、御茶ノ水にあったオフィスのエレベーターから降りてきたウォーリーと鉢合わせしたのが最後になった。色々とお金と近況の噂は耳に入って来たが真実は、藪の中・・・。

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1994年11月の『格チャン100回記念SP』収録での一コマ

 初対面は1977年8月25日の全日プロ、田園コロシアム大会。ミル・マスカラスvs.ジャンボ鶴田戦の試合前に清水さんから、竹内さんと一緒に紹介された。
 ずんぐりむっくりで背が小さく目が細くて、天然パーマで正直「この御仁は、本当に東京メトロポリタンの都会人で、名門上智大の生徒で英語がペラペラとは・・・」と思ったものだ。

 第一印象は・・・どう見ても、怪しい^^だった。普通にウォーリーという名も珍しく、当時のレスラー、MLBの選手、大好きな映画俳優、ミュージシャンで、ウォーリーといえば日系三世の元プロ野球選手、元巨人軍・・・のちに中日軍の監督となるウォーリー与那嶺さんとAWAの元会長のウォーリー・カルボだけにインパクトは残ったが。話すとざっくばらんで親しみやすい性格でまた真面目な^^^感性の持ち主。・・・僕と意気投合したのは、神のお導きかも。

 翌年、ウォーリーはFC『エルアミーゴ』の編集長に就き、「ザマニアックス」にも入団出来て、当時のウォーリーの実家が大田区の洗足池にあり、一戸建ての純和風の門構えは立派だったが、一歩玄関を入るなり「オーマイガー」状態。長身の親父さんとこれまた兄に似て小柄な弟のシュンちゃんがいて、当時同じ、洗足池の近所のアパートに住んでいた宍倉さんや清水さんと問題児のジミー鈴木もよく遊びに来ていて・・・。

 というより何日泊っても普通なら^^^気兼ねするところだったが、さすが、アメリカン。気さくな対応で普通に我が家のように思えたものだ。ウォーリーの部屋に始めて入った時はビックリ。壁には、ブルース・リーのポスターやプロレスラーのポスターがいっぱい貼られ、当時の高価な外国誌『レスリングレビュー』、『インサイドレスリング』、『ザ・レスラー』、『リング・レスリング』、『ビッグブック・オブ・レスリング』が所狭しと無造作に置かれていて、まるで銀座の有名洋書店「イエナ」に立ち寄ってマスカラスの記事を探していたような感覚に襲われたものだ。

 当時、貧乏大学生だった自分にとっては、手が届かない高値の品ばかりで羨ましい限りだった。僕の当時のアメリカン・ライフスタイルの基本は、1960年代にヒットしたTVドラマシリーズの『奥様は魔女』で、大きな冷蔵庫から取り出す巨大な牛乳瓶と広いリビングと洗練されたキッチンと大きな庭他多数・・。作りは当然違うけど、厳しい躾(しつけ)よさようなら^^とばかりの自由な空間である。

 靴を玄関で脱がなければ、家の中はmade-in-USA状態で来客も数知れず、ウォーリーの友人と称する人間に何人出会ったことか。几帳面な宍倉さん、坊ちゃん育ちの清水さん、トンパチのジミー、そして、まだ口がそんなに達者でない僕と^^^こうして「プロレス」という共通wordの旗の下に一致集結した次第です。

 当時は酒もまだ弱いし、タバコはSometime Liteのメンソールを吸っていたが、このメンバーでよく外食して楽しいひとときを過ごしたものだ。当時、メキシカンレストランの「エルアミーゴ」の本店が、環7の国道沿いに在ってウォーリー邸から繰り出したりした。それらの縁で赤の店Tシャツも店長に貰ったり、「グランデ・ハンバーグ」がみんなの人気メニューの一番だった。大らかで気さくなウォーリーの大好きなレスラーは、美獣ハーリー・レイス。とにかくレイスのものまねは天下一品で、独特のしわがれ声の「シュワ、ヒッヒッ」とか聞いているだけで大笑いの芸達者であった。

 よくプロレスごっこで、ウォーリーのレイスvs.ジミーの鶴田は、もうビデオに撮っておきたいほどだったが、今の時代と決定的に違う「アナログ世代」の強がりの一つは、記憶力ですな。多少の思い違いはあっても、心の名画座がいつ開催されてもok・・てな具合です。ケータイもデジカメもPCも無くても、目と目で会話して、握手して、ハグした思い出は、正しく心でいくつものシーンのシャッターチャンスのボタンを押していたはずさ。

 時は巡り、『エルアミーゴ』の解散とマニアックスの発展的解消で、個人個人の自主活動に伴い、両翼を失くした鷹の様にぽっかりと穴が空く。ウォーリーとも空白の時が・・・訪れた。

 以前にもこのコラムで紹介した「人と人の絆の持つ意味は深い」秘話公開。1989年12月に清水さんが新間ジュニア(久恒氏)に、ウォーリーをユニバーサルのリングアナに推薦した経緯。その翌年2月に青山の喫茶店で代表と打ち合わせがあり、レフェリーに決まったウォーリーとの再会が『格チャン』のmc起用に繋がる。格チャン終了後にスカパー『パーフェクトチョイス』のECW・WCWのPPV実況に決まって、当時のプロデューサーに「解説は、是非ウォーリーをお願いします」と直訴したのは、僕。後半、解説はフミ斎藤氏に代わってしまったわけだが・・・。

 1999年1月には、コアなファン以外多分忘れ去られた団体「世界のプロレス」の旗揚げシリーズだ。九州サーキットのリングアナに誘われたが、これはダブルブッキングでアウト。当時のIWAジャパンの菊池君と僕にオファーしており、一日の試合を半分ずつ担当したという、前代未聞のミス。参加選手は青柳館長、コーラキッド、ペプシボーイ、ビル・アーウイン、ジェフ・マンゲル他。レフェリーは、故テッド田辺氏。そして、極め付きが六本木のスポーツバー「ピーク」の店長に抜擢されたこと・・推薦者は、勿論ウォーリー。社長即決で話しがまとまった^^^。

 メガトン級の秘話は、1998年7月の当時WWF(現・WWE)でカイエンタイ(海援隊)のマネージャー「ヤマグチサーン」として小さい日本人のくせに態度のでかい怪しいキャラで人気者だったウォーリーからの、まさかの悪魔か正義の使者の囁きか、お誘いを受けたこと。
 「寺内、今度WWFに来ない? 代表のビンス・マクマホンと息子のショーンを紹介するから・・・」と、嘘の様なマジの誘い。当時は、英語とスペイン語の放送を各々リングサイド席を設け収録しており、英語版はジム・ロスとジェリー・ザ・キングローラーが名物コメンテーターを務めて大人気を博していた。スペイン語放送はあの葉巻とサングラス姿のプエルトリカンの旧友・ビクター・キニョネスが仕切っている。ここに、こともあろうに白羽の矢が立ったのが日本語ブースの設置計画だったのです。

 さてさて、この後も衝撃秘話の連続で、皆さん腰を抜かさないように。
 当時の僕は、前年の9月に格チャンが終わり芸能活動のみで、今は亡き名司会者・玉置宏さんのマネージャーとして北海道から九州を忙しく飛びまわっており、プロレス関係の仕事は何と、WWFの字幕作業(映画の字幕スーパーと同じ作業)を神楽坂にあった「ルミエール」という会社でツワモノの外国人と帰国子女が肩を並べてやっていたくらい。皆さん、信じられないだろうけど、この話し、事実なんですゾウ。腐れ縁とも言うべきウォーリーのビックリ話にキョトンと一瞬したものだが、この時まで自慢じゃないが、一人だけではアメリカもメヒコも行った事が無い。

 後楽園ホールで開催された武輝道場の試合のレフェリーをウォーリーがするというので、「ハンちゃん遊びに来ない?」と誘われたついでにWWFの打ち合わせもあって、試合の記憶はほとんどない^^^^。後のスーパースターに成長したケイン(グラン・ジェイコブス)のヤンカムの控え室に居たウォーリーを尋ね、物静かな彼を水道橋グリーンホテルにウォーリーと2人で先導したことが記憶に新しい。勿論、徒歩で先導だけどね。
 ホテルに就き、チェックインしたヤンカムと別れの握手をして5分位待ったか、ウォーリーが降りてきて狭いロビーでWWFの流れと今後について打ち合わせ。そこでなんと現地、フレズノにあるシェラトン・ホテルのロビーで再度、待ち合わせる事が決まった。この後、早速、渋谷のHISで格安のKAL航空の往復チケットを買い、6泊8日の初アメリカ一人旅の準備に入った。

 今回は、ここまで。次回は、ロス経由のKAL航空に乗ったら顔馴染みのレスラーとマスコミの男がいる・・・なぜ? そして、待ち合わせのシェラトンホテル・ロビーで一人寂しく待っていたら。お別れの曲は、ウォーリーの大好きなフランク・シナトラで、♪ニューヨーク、ニューヨークです。

 あなたのハートにウォーリー山口とミルホンネット。adios-amigo.
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1995年8月ゴングツアーのメンバーとコネチカット州ハートフォードWWF本社の応接室にて