格チャンもユニバ&全女、1990年5月放送ではEMLL特集1時間半とSWS~寺内1/2兵衛のviva素晴らしきプロレス#7

 格チャンも、ユニバ、全女、そして1990年5月放送ではEMLL特集1時間半と絶好調! SWSプロレス&メガネスーパーの方向性について、「天龍、全日プロ退社の推移、ジョージ高野と佐野直喜と若松市政の入団も秒読み・・等」様々な角度から分析されていた。30分、週刊ゴングの小佐野主任がゲストで登場。
 次の6月放送は、「アメリカンプロレススペシャル~MSWAプロ(ミッドサウス地区)」特集。ルイジアナで発見された1980年代のビル・ワット派のテレビマッチを中心にお宝映像が公開されてマニアの評判に。ゲストは、FMW『バトルミッション』に来日中のディック・マードックとアメプロ通のフミ斎藤さんでテンションも高く、楽しい収録でした。今は亡き、狂犬の冥福を祈ります。「プレゼントされたカントリーミュージックのカセットテープは宝物です・・」。今夜、久々に聞こう^^・・。
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 今回から舞台を日本から、プロレスの本場アメリカと自由の国メヒコでの楽しく、切なく、驚きと恐怖と嬉しいハプニング満載でお届けしますが勿論“初公開”。渡米も渡墨も有る、無い方もプチ・ジャーニーの気分でエンジョイされたし^^・・。
 記憶と保存して有る資料を、離れの物置から丸半日掛けて探して、スタンバイok^^・。
 オフ・ザ・リングNo.1,1984年2月、初のアメリカ、メヒコの旅
 初のルチャリブレ観戦となるソチミルコのトイレの臭いにたまらずギブアップー、シティーでは、EMLLのアレナコリセオは熱狂したフアンの袋入り「汚水」爆弾^にはこれまたびっくり、UWAマットに参戦していたアブドゥーラ・ザ・ブッチャーとたまたま同じホテル(アラメダホテルでのちに、・・・大地震の為、崩壊して残念)で偶然出会い意気投合。なんとエルトレオに、運転手つきの高級車で会場入りとラッキーな経験を・・・。それよりも、このドライバーがどう見てもマフィアのたたずまい出まくりで怖かったけど、話すと愛嬌の有る陽気なメキシカンでほっとした^^・・・。
 でもVIP待遇のブッチャーの優しさも、初対面にも関わらずフレンドリーに接してくれ、レスラーとしてのオンとオフの顔があまりに違ったギャップに、驚きと感心したね^^・・。1995年に日本で11年振りに再会した黒い呪術師は、この事を覚えていてくれて、ムイビエン^^.
当時屋根の無い鉄骨だけのドームで闘牛も行われていて、今は取り壊されてしまったが・・YouTubeでマスカラスが工事中のトレオで思い出話をしているので、興味ある人は、要チェック^^。では、一言「皆んな、集まれーー^^・・」。
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1984年2月、メヒコシティーの教会で会ったおばちゃま。ソカロ広場から見た同じ教会(右)
 連載第1回で話さなければと思った事は、プロレス業界にデビューしたのは、ユニバのリングアナですが、そもそも、「プロレスとの出会いとルチャリブレが好きになった訳は・・・」? やはりマスカラスに一目惚れして、マスカラスFC『エル・アミーゴ』の編集長に抜擢され、後にゴングの竹内さん、ウォーリー、宍倉さん、他の人達と出会い、段々とプロレスの視線が、メヒコやアメリカに向けられ、念願だった本場の試合が見れるチャンスが巡って来たと言う訳ですが…。
 皆さんも同じだと思うけど、初めの試合によってプロレスと言う摩訶不思議な世界を愛せるか途中で嫌いになるかの分岐点ではないかと・・・。僕の出会いは1968年1月3日の蔵前国技館でジャイアント馬場がクラッシャー・リソワスキーを14分30秒体固めで勝利して、インター王座18度目の防衛に成功した試合。だが、殆ど試合内容は小学生の為覚えて無く、試合後の控え室のクラッシャーのインタビューで、有名な徳光和夫アナが差し出したマイクにガブリと噛み付きドスの利いた低音でがなり立てるドアップの形相が今でも忘れる事の出来ない衝撃で、すっかりプロレスの虜と言うより、壊砕者にハートを奪われたと言った方が正しいと思うけど^^・・。
 これですっかりプロレスにドップリハマリ^^・、幸運にも、たまたまマンガを買いに本屋に入ったら、創刊したての『月刊ゴング』が1冊だけ有り、これが結構人が読んで折り目が入っていたけど、もう他の本屋で探すより、ここで出遭ったが100年目^^・・僕が買わずして、誰が買うの^^^・・と呪文を繰り返す如く・・・。当時、水木しげるのテレビドラマの『悪魔くん』(NETテレビ)の影響かも知れないが。今も宝物として保存しているが、もう寝ても覚めても、プロレスにドップリはまり、幸運にも3月25日、今はもう無い桐生市産業文化会館で、国際プロの『ワールド選抜シリーズ』の特別リングサイド「前から2列目」をスポーツ店ですぐ買う。
 日本勢より、前年4月に初来日した”人間風車”ビル・ロビンソンがエースで参加、他は、アルバート・ウォール、ドリー・ディクソン、スタン・スタージャック、タンク・モーガン、ホセ・アローヨの5選手が参戦。TBSでテレビ中継され、当時の月刊ゴングにも大きく掲載され、初観戦のライブは、生の迫力と何と言ってもロビンソンがカッコよくて、伝家の宝刀のダブルアームスープレックスが決まった時は、興奮して、イスから立ち上がり、鳥肌出まくりでした^^・・。
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 1970年3月16日の『IWAワールド・チャンピオンシリーズ』には勿論ビル・ロビンソンがエースですが、幻の一匹狼レスラーの清美川が14年振りの日本マット特別参加、新人の黒潮太郎の名が^^^・・。必見は、リングサイドが¥1800前売り価格で時代を感じて、安い^^・・。でも外国勢が弱すぎる・・。1968年11月の第1回『IWAワールドシリーズ』は、ロビンソン、Gゴーディエンコ、Pメイビア、RGアポロン、Mネイダー、Gボワ二ー、Jダシルバの豪華メンバーだったのに・・。こうも1回と2回で質が落ちるとは・・・この後にAWAと提携して良かった^^^・・。
 その後、年2回は必ず、日プロ、新日プロ、全日プロが来桐してくれ、東スポ、月刊プロレス、週刊ファイト、内外タイムスを読み漁り、早く東京でビッグマッチが観たいなぁーと思いつつ、忘れもしない1971年2月19日がやって来た^^・・。あの悪魔仮面と呼ばれていたミル・マスカラスの待望の日本デビューは、日プロ『ダイナミックビックシリーズ』の後楽園ホール大会で、相手は星野勘太郎だった。日本マットでは初公開のダイビング・ボディアタックを華麗に決めて勝利したが、忘れてならないのは、2年半にも及ぶゴングのこれでもかと言えるキャンぺーンの力の賜物だ。
 「古き良き昭和の^^・・未知の強豪、遂に来日」なんて文字が良く登場してたけど、胸ワクワクでシリーズの外国人選手の発表を待ったものでしたが、もう一つの要因は、対戦者が本当に星野さんと言わなければ失礼なほど、マスカラスの魅力を最大限に引き出した実力があればこそです。なぜなら1967年と1969年の2度メヒコに遠征していて、「グレート・ヤマモト」のリングネームで活躍、当時のエル・サント、ソリタリオ、レネ・グァハルド等のトップ達との経験が生かされたからなのです。
 今もマスカラスのベストバウトはこの試合で、残念な事に日テレがビデオ保存してなく、昔のエル・アミーゴ時代の友人がもう20年前位に四国だったか中国地方の電気屋サンが、ビデオ持ってるかも・・・と信じたいが、彼のケータイ番号も知らないし、どこに住んでいるかも分からないが、昔の手紙は離れに有るので、掃除して探そう・・・。実家が引っ越してなければいいけど、もう30年経ってるから無理かも・・。でも、映像は無くても、いよいよ、マスカラスの登場が近づき、勿論♪スカハイのテーマ曲もなく、館内はざわめき立っていた時、黒と銀色のマスクが見えた瞬間、あのリソワスキーを観た時と同じインパクトが再び襲ってきて、どれほど感激したことか。
 お約束のトップロープをフワリとジャンプしてのリングインが、もうカッコよくて、2年半も
待たされたおかげで、フラストレーションが溜まりに溜まり、当時の羽田空港に100人以上のファンが集まり、マスク姿で登場したマスカラスのプロ魂は、レスラーの鏡と言ってよく、さすがの一言。”千の顔を持つ男”ならず、”1001の顔を持つ男”だと、僕はズーッと思っていて、今回告白出来てムイビエン^^^. 賛同者いるかなーー・・。いないだろーなーと思っても、今も手元に昔の月刊ゴングと別冊を見ると、自分の主観なので、誰もいなくてもめげないよ^^・・。
 だって、あのマスカラスを担げ、弟のドス・カラスと一緒にビールで乾杯し、カラオケまで出来たから^^・・と言うほとんど素人さんのノリにちかいのは、ご愛嬌でソーリー.
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映画界のアカデミー賞か、音楽界のグラミー賞に匹敵するビッグイベントの『エル・アルコン誌』パーティで5年半振りに再会した仮面貴族と・・。
 夢が見れなくなった昨今ですが、本年大盛り上がりのサッカーW杯も(本稿執筆時点の)今夜から準決勝ですが、日本代表の奇跡のベスト16入りは、多くの人達に夢と感動をあたえたことは事実ですな。サッカーの魅力に酔いしれている一人ですが、プロレスも、夢とロマンを与えて欲しいね。隣のお姉さんやお兄さんと同様のレスラーや芸能人では無く、余りに小粒でスケールの大きい逸材の誕生を望む。切に、切に・・・。
 「選ばれし者の恍惚と不安」と言う前田日明の名言が結びつく、レベルの高い、オーラを醸し出し、引退しても、死んでも記憶に残るレスラーの宝庫の昭和プロレス万歳ブラボー^^;;・.
「当時の好きなアイドルは桜田淳子で、比較がおかしいかも^^・・。でも好きな者にジャンルも性別も国籍も無い::。理解して貰えたかな^^・・」。例えば、自由の女神とモアイ像のどっちが好き:::。両方好きでもウエルカムですが、実際に1995年8月に行ったので、アイラブニューヨークの自由の女神像。
 チョット、コーヒーブレイクの様な、トイレタイムの様な緩さも入れてみましたが、トゥー・マッチと思わずにお付き合いの程を^^・・・。
 本当に連続ドロップキック22連発が炸裂するのか・・・^^。
 「皆さん、1試合で無くて、連続ですぞーー^^」。
 星野サンがマスカラスのマスクの紐をほどくシーンや、今まで観たことも無いフォームの綺麗なドロップキック^^「22連発は、後の試合まで温存していた^^と真剣に信じていた、・・・^^。なんて子供の純真さたるや素晴らしい」と自分を、フォローしつつ、他の攻防も鮮やかに今も脳裏に残っているが、もしタイムマシーンがあれば、大好きだった、スーパージェッターの流星号でひとッ飛びで1971年2月19日の後楽園の客席に座っていたい。決してデロリアンでないのが古いけど、でも1996年5月にロスのユニバーサルスタジオに、ウルチィモ、サスケ他と遊びに行き、映画で実際使用した本物があり記念写真を^^・・。またの機会をお待ちくだされ・・・。
 竹内さんもマスカラスのベストバウトは、この試合だと、最後に会った2003年10月の東京ドームホテルの1階のラウンジで語っていた。当時六本木のスポーツバーの店長時代に店でのイベントの相談と久々に会いたくなり、大のプロレスオタクだった社長と初対面にも関わらずも、2時間半も貴重な秘話も聞かせてくれて、心から感謝です。それから約3年後に、まさか2006年11月に急病で倒れ今も入院していて、心より全快され1日も早い退院を祈ります、アーメン。
 2004年5月に僕のケータイにいつもの明るい声で「おつかれ、寺貫ッて・・・」このフレーズは今も忘れられない・・。店も2004年2月に信頼していた社長が約1億円の借金を作り失踪、店に飾ったアストロとケンドーとマスカラスとドス他、本物のお宝マスク20枚と格チャンビデオ10本、メヒコで買ったソンブレロ、1979年8月26日『夢のオールスター戦』のポスター、1976年6月26日『猪木vs.モハメッド・アリ戦』の世紀の対決ポスター、昔のメヒコの雑誌他、キリが無いモノばかりと給料3ヶ月分=75万、プラス個人的に貸した10万で85万円も泡と消えて・・・。他にも、私物の服やCD、本、フィギュア、写真、etc・・・。
 そうかと思えば、悪夢から6年後の今年の2月に新木場1stリングの控え室で、今回の電子書籍参戦のチャンスをつくって下さったライターの田中さんには、感謝、感謝です^^・・・。でも無くした物や未納のギャラより丈夫で健康な体があって良かったと思い、様々な出会いに感謝です^^・・。この田中さんと1995年4月にある出来事が有り、約15年の時を超えて、遂に出会えたのは、偶然でなく、神の導きがあったと信じてます・・・。
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目から鱗が落ちる不朽の名著、プロレス本の金字塔『プロレス・格闘技、縦横無尽』(集英社95年)
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ポーゴ&田中さんの腐れ縁(寺内氏保存95年6月23日号『週刊ポスト』紙面より)
 今回はここまで、次回はいよいよ成田空港から、初のアメリカ、メヒコへ飛び立ちます^^・・・。それでは、いつものフレーズで「あなたのハートに格闘チャンプフォーラムとミルホンネット、アディオス・アミーゴ!」