小錦の兄、アノアロ・アティサノエ死去。アティサノエはPRIDEとも関係があった。

 大相撲の元大関小錦(現タレントのKONISHIKI)の兄、アノアロ・アティサノエが11月23日(現地時間)に心不全のためハワイの病院で亡くなった。51歳という早すぎた死去だった。

 このアティサノエ、プロレスファンには猪木の異種格闘技戦が有名で昭和59年 9月20日 大阪府立体育館で猪木と対戦している。当時、大相撲で人気だった小錦の兄、という事で注目され、猪木もウィリー・ウイリアムス戦以降、封印していた“異種格闘技戦”を復活させるという話題を振りまいた試合だったが、アティサノエは格闘技経験が無く、ベースとなる格闘技も無い為、『格闘家』というよく分からない肩書きで登場した。
 そして、やはりまったく動けず、最後は猪木のバックドロップで沈むものの内容は世紀の凡戦と言われ、別の意味でプロレス史の語り草になっている。

 その後、猪木の強さに惚れたという事で新日本プロレスに入門したが、すぐにいなくなってしまった。
その後、音沙汰が無かったものの、2002年に急遽、日本の『PRIDE』に格闘家、アティサノエがその最強一族を送り込むと挑戦状を叩きつけてきたのだが、これはあまり知られていないだろう。
(このニュースは2002年1月の東京スポーツの紙面を飾っている。)

 当時、人気絶頂だった『PRIDE』は猪木をプロデューサーに迎えて、プロレス的な煽りが強くなっていた。更に2002年の8月にハワイ大会を予定していたのもあり、猪木と親交があり、地元ハワイで知名度のあるアティサノエを担ぎ出したのだが、その後、ハワイ大会は中止、流石に猪木との異種格闘技戦から18年も過ぎており、アティサノエの格闘技ファンへの知名度もあまり無かった事からフェードアウトしている。

 よもや、アティサノエ本人が『PRIDE』に参戦する事は無かっただろうが、その弟や息子が参戦していたら、また面白かったかもしれない。
 51歳、日本のプロレス、格闘技界に馴染みの深かったアティサノエの早すぎる死に合掌。