『美城丈二の“80’s・プロレス黄金狂時代 ~時代の風が男達を濡らしていた頃”』
Act⑰【前田日明という名の“夢幻”】
核心部分をずばり突く。他のレスラーたちが曖昧に濁す言説も、前田は時としてはっきりと言及し、ゆえに摩擦を生み、疎外を受け、またそれら虐げられた感覚を糧にして、新たなる現象を生み出そうと躍起になる。ファンはそんなまっすぐな前田日明が大好きで、時にたおやかに、時に情熱的に、氏を応援し続けた。
こういった側面描写が果たしてまさしく的を得ているかは、私はもはや大上段に掲げたくは無い。だが、アントニオ猪木を頂点とする新日本プロレス帝国の、その礎にあって、日々修練に励み、時としてそんな猪木の付き人として寄り添い、プロレスという、そのものの定義に疑問を感じ、またそうであったがゆえに猪木の“負”の部分をも誰よりも見出してきたであろうという、若き日の前田日明という一己の青年の内面、葛藤なるものを鑑みた際、その後の氏の発言が真理としての重みを十二分に放っていたと察せられるのは私だけの推量ではあるまい。
前田日明、氏の“苦悩”は好む、好まざるに関わらず、プロレス界の内にあって沸きいずるものであったが為に、ずばり核心部分を突き、プロレス村の住民にとってはまさにそれゆえに、眉をひそめる側面をも有していたということ。
だからこそ、前田日明を指して“プロレス界の異端児”と、内に在所しながら糾弾するという精神を、かつて讃える人々の群れが現れたのである。良くも悪くも前田日明はプロレス界にとって敵であり、未来を繋がんとする味方、“革命者”だったのだと思う。
「アントニオ猪木なら何をやってもいいのか?」
1986年2月の「新日本vsUWF頂上決戦」猪木対藤原戦後における前田日明の叫び。あの叫びをいわゆる“プロレス内言語”と揶揄する向きは少ない。本心の叫びであったと多くの識者は口々に語ったものだった。栄えある第1回IWGP決勝リーグに欧州代表という、当時の新日本“苦肉の策”にてエントリーされるほど将来を渇望された男が何故に、その新日本に刃を向けなければならなかったのか?
その最初の原因と指摘される事象がいわずもがなか、第1次UWF旗揚げ騒動にあることはもはや論を待たないと思われる。プロレス村の住人以外にも、それと判る形ではっきりと猪木の“負”の部分が露呈し始めた事象ともあいなった。
あそこから、猪木と前田の“師弟”としての歯車はそれまでの前田の深奥、内だけにあった“苦悩”が一気にそれと判る形で噴出し、微妙な暗転として廻り始め、そのUWF団体なるものが後年、新日本にて立場を無くした猪木の受け皿的団体であったのだという側面が浮かび上がってしまった時、もはや猪木と前田ののちの対立劇は確約されてしまったのだとも思えるのだ。
こうなると、猪木、氏の“負”の部分どころかプロレス界自体の“負”の部分をも一気に露呈して止めどが無くなってくる。猪木こそ、そう、『ミスター・プロレス』であったのだという、愕然・・・・・・。
私も回顧的な物言い、まして随分な僭越なる言いようかとは思うのだが、前田日明には誠に多くの夢を見させていただいたなと、思考する識者のひとりである。リングの“華とも言うべき、ゴッチ仕込の幾種類ものスープレックスを引っさげ、凱旋帰国してきた若き日の、前田日明。
“スパークリング・フラッシュ”・・・たっぱもありくそどきょうも満点。まさしく将来を約束されていたかのようなその“立ち居振る舞い”に新日本プロレスの揺ぎ無い未来が垣間見えた、あのまさしく今となっては幻影としか言いようの無い“煌き”は一体、果たしてなんだったのか?
プロレスはまことに難しい。
ひとの心の中に潜む“綾”なるものを抽出してリングで魅せるものが『プロレス』なるものであるとするならば、その“綾”がまた、かつての純朴なる青年、前田日明という男の“綾”をも苦しみ続けたのかとも感じる。
夢幻である。
夢幻であった。
前田日明が新日本の頂点に位置するという、夢幻・・・。
それはまさしくいっときの夢、幻に終わってしまったのであった。
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