昭和プロレス「少年たちとプロレス」序章

「明治は遠くなりにけり」いや、今や昭和こそ遠くなってしまった。最近、昭和という言葉をよく聞く。いずれも、”懐かしい”とか、”レトロ”とか、キーワードがつく事が多い。もはや、昭和の記憶は、回顧録の類に入っているのだ。昭和時代、祖父母が話す明治・大正・戦前の話を古臭く聞いたものだが、今度は自分がそちら側に回っているようだ。

 昭和時代、少年だった僕らのそばには、間違いなくプロレスがあった。イケメンやエンタメの平成プロレスではなく、あくまでゴツゴツした昭和のプロレス。その「昭和のプロレス」は、お小遣いをためたお金でチケットを買ったプロレスであり、夢中になって月刊誌にかぶりついたプロレスであった。こういう親父連中が集まると、話はすぐ昭和のプロレスにタイムスリップする。
 ボボ・ブラジルの花束を食う姿にびびり、馬場の三十二文に狂喜し、猪木の弓矢固めにうなったものである。桜田淳子を悩殺したジャンボ鶴田のギターもカッコいいが、ロッキー羽田のアメリカンなパンツに憧れ、新日師弟コンビといえば、猪木・藤波もそうだけど、元々は猪木・柴田だろと知ったかぶりをして、寺西勇のIWAミッドヘビー時代の巧者ぶりを語る。

 猪木の入場曲は、炎のファイターではなくて、テレビ朝日のスポーツテーマであり、技の呼称も「ダブルアームスープレックス」ではなくて「人間風車」であり、現在テレビでは(放送禁止?)表現として使用しづらい大木金太郎の得意技の呼称「原爆頭突き」も小学校の砂場や校庭で披露したはずである。平成に入ってから、仕事としてプロレス見始めた連中に四の五の言われる筋合いはない。我々は、貴重な子供の時間をプロレスに捧げた大いなるプロレス者なのだ。
 このように、昭和のプロレス少年は、人生の節目節目でプロレスの影響を受けてきた。少なくとも、私・山口敏太郎が作家になったのは、村松三部作の影響であり、特に「ダーティヒロイズム宣言」は心の礎となった。つまり、「昭和のプロレス」は、単なる娯楽や趣味の域を超えていた。狂喜じみたプロレス愛、人生さえも左右される永遠のプロレスLOVEがそこにあったのだ。

 現在、40代となった私は今でも時折友人たちと、あの懐かしき日々を回想することがある。様々な分野で活躍しているいい大人が、プロレスの話ひとつで少年に戻れるのだ。言わば「昭和のプロレス」とは、時代の共有であり、思い出の断片である。
 今、筆者は都市伝説やホラー、妖怪・UMA、歴史小説の執筆、大学院の研究活動で多忙を極めているが、月2,3回のペースで回顧録を記述していきたいと思う。お付き合い願えたら幸いである。
山口敏太郎事務所