[週刊ファイト04月30日]期間 [ファイトクラブ]公開中
▼現代格闘技という芸術の胎動-そしてアントン・ヘーシンクへと続く系譜
編集部編
・原点とも言えるアントン・ヘーシンクの偉大なる歩みを振り返る
・柔道という名の“世界制圧”――アントン・ヘーシンク、圧倒的すぎる軌跡
・異端か、それとも先駆者か―プロレス転向に込められた苦悩と挑戦
・勝者で終わらない男―その後の歩みと、格闘技史に刻まれた不滅の価値
・本稿特別収録~© RIZIN-画像選択編集:野村友梨乃 by 美しき活動家
・9・10(木・平日) 『超RIZIN.5』京セラドーム大阪発表@ミッドタウン日比谷
※記事ごとに永久保存の貴重なドキュメント、凝縮のPDFも各500円で販売中!
▼超RIZIN5浪速の超復活祭り:平日開催の舞台は初の大阪京セラドーム
▼今週のマット界肝:ホルムズ海峡米軍閉鎖トランプUFC発表「アホか!」
Photo:Mike Lano提供画像/他 タダシ☆タナカ+シュート活字委員会編
原点とも言えるアントン・ヘーシンクの偉大なる歩みを振り返る

格闘技は、単なる勝敗の競技ではない。そこには時代ごとの価値観、人間の美意識、そして社会の鼓動が映し出される文化的装置としての側面が確かに存在しているのである。2026年4月18日、東京ミッドタウン日比谷で行われた『超RIZIN.5』の発表会見は、まさにその“現代格闘技の芸術性”を象徴する出来事であったと言っていい。
巻末付録収録の記事、“格闘技を芸術として捉える視点”は、決して現代に突然生まれたものではない。その源流を辿れば、競技の枠を越え、異種格闘技の可能性を切り開き、プロレスという表現の場へと自らの肉体を投じた先駆者たちの存在に行き着く。その中でも特筆すべき存在こそが、柔道界の巨人にして、異端の挑戦者――アントン・ヘーシンクである。
ここで一つ触れておきたいのは、彼の誕生日が1934年4月6日であるという事実だ。まさに今この4月という季節は、ヘーシンクという偉大な存在を改めて振り返るにふさわしい時間であり、現代格闘技の熱狂が高まる今だからこそ、その原点に立ち返る意味は極めて大きい。
オランダから世界を制し、1964年東京五輪で柔道史に不滅の名を刻んだこの男が、やがてプロレスのリングへと足を踏み入れた事実は、単なる転向ではない。それは「格闘技とは何か」「強さとは何か」「見せる闘いとは何か」という問いを、時代に先駆けて提示した行為であった。
現代のMMAが、競技でありながら興行であり、さらには観る者の感情を揺さぶる“表現”として成立しているのは、こうした先人たちの挑戦の積み重ねがあってこそである。つまり、京セラドーム大阪で開催される『超RIZIN.5』の熱狂もまた、遠くヘーシンクの時代から連なる一つの系譜の延長線上にあるのだ。
ここから先は、その原点とも言えるアントン・ヘーシンクの偉大なる歩みを振り返り、その圧倒的な存在感と功績を、改めて讃えていきたい。
柔道という名の“世界制圧”――アントン・ヘーシンク、圧倒的すぎる軌跡

ジャイアント馬場と組んで活躍した全日本プロレス時代
貧しき少年が掴んだ畳の上の夢
アントン・ヘーシンク(Antonius Johannes Geesink)は1934年4月6日、オランダ第4の都市であるユトレヒトに生まれた。父親が運河を行く小さな船の船乗りを生業とする貧しい家庭の出身であり、12歳の時点からすでに建設現場で肉体労働に就いていたという、およそエリートとは程遠い出自の持ち主である。しかしそのような境遇の中で14歳から地元の柔道教室に通い始めたことが、彼の人生そのものを根底から変えていくことになる。
柔道を始めた当初のヘーシンクは、身長198 cmという恵まれた体格こそ備えていたものの、自信とは無縁の青年だったという。のちに彼を世界の頂点へと導く師・道上伯は「出会った当時の彼は、198 cmという身長に似合わない弱気な劣等感の塊だったが、第1回世界選手権と東京での武者修行の後に帰国した彼は見違えるほどの自信に満ち溢れ、まるで選手権者のような貫禄を有していた」と語っており、柔道を通じた人間的な変容の深さに驚嘆の念を隠さなかった。
1955年、オランダ柔道チームの指導のために来欧していた道上伯の目にとまったヘーシンクは、その才能を見込まれて徹底的な個人指導を受けることとなる。さらに彼は日本の講道館や天理大学にも渡り、松本安市らの指導を受けながら技術と精神の両面を磨き続け、以後引退するまで毎年2ヶ月ほど日本に滞在してトレーニングに励むという生活スタイルを貫いた。この時期に道上から受けた薫陶について、師はヘーシンクを「指導には何でも従う、素晴らしく素直な選手だった。酒もタバコも慎み、休日は自然と触れ合いながら体力作りに専念するなど、感心するところは枚挙に暇がない」と振り返っている。
ヨーロッパを征服し続けた無敵の時代
ヘーシンクの競技成績は、数字として見るだけで圧倒されるほどの密度を持っている。1951年にヨーロッパ選手権1級の部で2位に入ったのを皮切りに、翌1952年には初段の部で優勝を果たすと、1953年から1964年にかけてヨーロッパ選手権の重量級・無差別において空前絶後の連続優勝を積み重ね、キャリアを通じてヨーロッパ選手権の金メダルを実に21個も獲得するという驚異的な記録を打ち立てた。これは欧州柔道史においていまだ破られていない偉業である。
その強さを支えたのは、当時としては先鋭的だった筋力トレーニングの積極的な導入と、柔道以外のあらゆるスポーツを体力強化に取り入れるという多面的なアプローチにあった。実際、レスリングのオランダ全国大会でグレコローマンスタイルにて優勝したばかりか、レスリング世界選手権でも6位という好成績を残しており、1960年のローマオリンピックにはレスリング競技での出場を目指すほどの実力を有していた。体重についても、道上の指導を受け始めた頃の実体重が82 kgに過ぎなかったにもかかわらず、1961年の第3回世界選手権時には108 kg、1964年の東京オリンピック時には120 kgまで増量に成功しており、その肉体の変貌もまた彼の競技人生における重要な側面を物語っている。
1961年ミラノ―「外国人初」の歴史的快挙