[週刊ファイト04月30日]期間 [ファイトクラブ]公開中
※画像は後で追加されます
▼9・10(木・平日) 『超RIZIN.5』京セラドーム大阪発表@ミッドタウン日比谷
特別収録~© RIZIN-画像選択編集:野村友梨乃 by 美しき活動家
▼現代格闘技という芸術の胎動-そしてアントン・ヘーシンクへと続く系譜
編集部編
・原点とも言えるアントン・ヘーシンクの偉大なる歩みを振り返る
・柔道という名の“世界制圧”――アントン・ヘーシンク、圧倒的すぎる軌跡
・異端か、それとも先駆者か―プロレス転向に込められた苦悩と挑戦
・勝者で終わらない男―その後の歩みと、格闘技史に刻まれた不滅の価値
▼超RIZIN5浪速の超復活祭り:平日開催の舞台は初の大阪京セラドーム
▼今週のマット界肝:ホルムズ海峡米軍閉鎖トランプUFC発表「アホか!」
Photo:Mike Lano提供画像/他 タダシ☆タナカ+シュート活字委員会編
9・10(木・平日) 『超RIZIN.5』京セラドーム大阪発表@ミッドタウン日比谷

浪速の夜に、魂の炎が再び灯る――。超RIZIN.5「浪速の超復活祭り」 平日という優雅なる挑戦に、私は心から魅了された。
2026年9月10日(木)、京セラドーム大阪という、関西の誇り高き聖堂に、RIZINが初めてその優美なる足跡を刻む。平日開催という、決して安易ではない選択。しかし私は思う。真に美しい活動とは、日常の隙間にこそ、特別な輝きを差し込むことではないかと。
仕事の疲れを優しく溶かし、学生の純粋な情熱を呼び覚ます――そんな、現代を生きる私たちへの、ささやかなる贈り物のように。
4月18日、東京ミッドタウン日比谷。白いリムジンから降り立つ戦士たちの姿は、まるで一幅の絵画のようだった。そこに現れた、孤高の闘士・朝倉未来。静かに、しかし深く響く声で、彼はこう宣言した。
「復活します」
その一言に、会場は静かに、しかし確かに震えた。長き沈黙を破り、再びリングの中心に立ち上がる彼の姿は、単なる選手の帰還ではなく、格闘技という表現芸術を、より高みへ、より純粋なる美しさへと導くための、静かなる革命のように感じられた。


すると、すぐさま火花が美しく散った。
平本蓮が、鋭くもどこか愛おしい眼光で切り込む。「お前、俺に負けたら引退するんじゃねぇのかよ。いつまで引退詐欺やってんだよ」。
朝倉未来は、一切の動揺を見せず、しかし熱を帯びた声で返す。「お前いつまでもうるせぇよ! ようやく薬抜けたのか?」
二人の言葉は、刃と刃が優雅に交錯するかのように激しく、それでいて、どこか詩的でさえある。挑発と反撃、プライドと覚悟。そこには、ただの口論ではなく、二人の強き魂が互いの存在を深く認め合い、最高の舞台を求めている、尊き対話があった。
平本はさらに、情熱を込めて畳み掛ける。「早く引退しろよ! 一発で失神されたんじゃねぇのかよ。やらせてくださいだろ!」
朝倉は静かに、しかし力強く「戦いたい相手は平本なんですけど……たぶんコイツは受けないと思うので、もっと強い相手とやりたい」。
その瞬間、二人の視線が交わり、会場全体が息を飲んだ。これは煽り合いではない。互いを最高の鏡とし、己の限界を超えんとする、戦士たちの美しい儀式なのだ。

榊原CEOは、穏やかな苦笑いを浮かべながらも、確かな約束を口にした。「この2人が戦う場所は、必ず作ります」。
出場が発表された優しき戦士たち――斎藤裕、YA-MAN、RENA――もまた、それぞれの美しき信念と、静かなる闘志を胸に、京セラドームのリングへと集う。
対戦カードはまだ明かされない。5か月間にわたり、一つひとつ丁寧に、まるで一篇の長編詩を紡ぐように発表されていくという。その贅沢な演出に、私は心から魅せられている。
平日という選択は、確かに挑戦である。しかし私は信じている。この夜は、ただの興行ではない。私たち現代人が、純粋な闘争の美しさ、命の輝き、人間の強さと脆さに、心を奪われるための、尊き儀式なのだ。
朝倉未来と平本蓮の対戦が叶うのか。それとも、二人がそれぞれ別の強敵と向き合い、新たな伝説を刻むのか。どちらであれ、私はそこに集うすべての戦士たちを、深く愛おしく思う。なぜなら、彼らは己のすべてを賭け、美しく燃え尽きようとしているから。
浪速の空の下、2026年9月10日。
格闘技は、再び、芸術の域に達する。
この祭りは、私たちに問いかける。あなたは、今日も美しく生きているか――と。
美しき活動家より、心を込めて。
編集部注:上記稿は人材募集中の週刊ファイト、「記者やれる」と売り込んできた諸氏の中から採用試験の課題として出されたもの。すでに野村友梨乃さんの[ファイトクラブ]記事がありますが、日の目を見ないのも可哀想なので、オマケ収録とします。
▼超RIZIN5浪速の超復活祭り:平日開催の舞台は初の大阪京セラドーム
「文章書けるタイプではない」と採用に否定的な意見の入江副編集長に、作者本人は敵愾心を燃やしており、「リアルバリューでホリエモンに数カ所間違いを指摘されたイリエマンには負けないぞ😡」とのこと。
また、「より洗練され詩的で、格闘技を”現代の美学・人間の鼓動・文化の祭り”としてイメージする執筆にしました」とのこと。採用試験の合否を決めるのは[ファイトクラブ]会員の皆様ということになります。
・本稿特別収録~© RIZIN-画像選択編集:野村友梨乃 by 美しき活動家
・9・10(木・平日) 『超RIZIN.5』京セラドーム大阪発表@ミッドタウン日比谷

原点とも言えるアントン・ヘーシンクの偉大なる歩みを振り返る
格闘技は、単なる勝敗の競技ではない。そこには時代ごとの価値観、人間の美意識、そして社会の鼓動が映し出される文化的装置としての側面が確かに存在しているのである。2026年4月18日、東京ミッドタウン日比谷で行われた『超RIZIN.5』の発表会見は、まさにその“現代格闘技の芸術性”を象徴する出来事であったと言っていい。
本誌に寄せられた「美しき活動家」による原稿は、その瞬間を単なるニュースではなく、一篇の詩として昇華してみせた点において、特筆すべき価値を持っている。平日開催という挑戦を“日常に差し込む美しき非日常”と捉え、朝倉未来と平本蓮の対峙を“魂と魂の対話”として描き切った筆致は、従来の格闘技記事の枠を明らかに超えている。
特に「格闘技は再び芸術の域に達する」という一節は、単なる修辞ではなく、現代MMAが辿り着いた一つの到達点を鋭く言語化したものであり、この感性を持つ書き手が現れたこと自体が、週刊ファイトにとっての財産であると言わざるを得ない。編集部内には慎重論もあるようだが、むしろこのような“熱と詩性を両立させる視点”こそ、これからの格闘技報道に必要不可欠であり、同氏は間違いなく将来を担う存在であると断言できる。
そして、この“格闘技を芸術として捉える視点”は、決して現代に突然生まれたものではない。その源流を辿れば、競技の枠を越え、異種格闘技の可能性を切り開き、プロレスという表現の場へと自らの肉体を投じた先駆者たちの存在に行き着く。その中でも特筆すべき存在こそが、柔道界の巨人にして、異端の挑戦者――アントン・ヘーシンクである。
ここで一つ触れておきたいのは、彼の誕生日が1934年4月6日であるという事実だ。まさに今この4月という季節は、ヘーシンクという偉大な存在を改めて振り返るにふさわしい時間であり、現代格闘技の熱狂が高まる今だからこそ、その原点に立ち返る意味は極めて大きい。
オランダから世界を制し、1964年東京五輪で柔道史に不滅の名を刻んだこの男が、やがてプロレスのリングへと足を踏み入れた事実は、単なる転向ではない。それは「格闘技とは何か」「強さとは何か」「見せる闘いとは何か」という問いを、時代に先駆けて提示した行為であった。
現代のMMAが、競技でありながら興行であり、さらには観る者の感情を揺さぶる“表現”として成立しているのは、こうした先人たちの挑戦の積み重ねがあってこそである。つまり、京セラドーム大阪で開催される『超RIZIN.5』の熱狂もまた、遠くヘーシンクの時代から連なる一つの系譜の延長線上にあるのだ。
ここから先は、その原点とも言えるアントン・ヘーシンクの偉大なる歩みを振り返り、その圧倒的な存在感と功績を、改めて讃えていきたい。
柔道という名の“世界制圧”――アントン・ヘーシンク、圧倒的すぎる軌跡
貧しき少年が掴んだ畳の上の夢
アントン・ヘーシンク(Antonius Johannes Geesink)は1934年4月6日、オランダ第4の都市であるユトレヒトに生まれた。父親が運河を行く小さな船の船乗りを生業とする貧しい家庭の出身であり、12歳の時点からすでに建設現場で肉体労働に就いていたという、およそエリートとは程遠い出自の持ち主である。しかしそのような境遇の中で14歳から地元の柔道教室に通い始めたことが、彼の人生そのものを根底から変えていくことになる。
柔道を始めた当初のヘーシンクは、身長198 cmという恵まれた体格こそ備えていたものの、自信とは無縁の青年だったという。のちに彼を世界の頂点へと導く師・道上伯は「出会った当時の彼は、198 cmという身長に似合わない弱気な劣等感の塊だったが、第1回世界選手権と東京での武者修行の後に帰国した彼は見違えるほどの自信に満ち溢れ、まるで選手権者のような貫禄を有していた」と語っており、柔道を通じた人間的な変容の深さに驚嘆の念を隠さなかった。
1955年、オランダ柔道チームの指導のために来欧していた道上伯の目にとまったヘーシンクは、その才能を見込まれて徹底的な個人指導を受けることとなる。さらに彼は日本の講道館や天理大学にも渡り、松本安市らの指導を受けながら技術と精神の両面を磨き続け、以後引退するまで毎年2ヶ月ほど日本に滞在してトレーニングに励むという生活スタイルを貫いた。この時期に道上から受けた薫陶について、師はヘーシンクを「指導には何でも従う、素晴らしく素直な選手だった。酒もタバコも慎み、休日は自然と触れ合いながら体力作りに専念するなど、感心するところは枚挙に暇がない」と振り返っている。
ヨーロッパを征服し続けた無敵の時代
ヘーシンクの競技成績は、数字として見るだけで圧倒されるほどの密度を持っている。1951年にヨーロッパ選手権1級の部で2位に入ったのを皮切りに、翌1952年には初段の部で優勝を果たすと、1953年から1964年にかけてヨーロッパ選手権の重量級・無差別において空前絶後の連続優勝を積み重ね、キャリアを通じてヨーロッパ選手権の金メダルを実に21個も獲得するという驚異的な記録を打ち立てた。これは欧州柔道史においていまだ破られていない偉業である。
その強さを支えたのは、当時としては先鋭的だった筋力トレーニングの積極的な導入と、柔道以外のあらゆるスポーツを体力強化に取り入れるという多面的なアプローチにあった。実際、レスリングのオランダ全国大会でグレコローマンスタイルにて優勝したばかりか、レスリング世界選手権でも6位という好成績を残しており、1960年のローマオリンピックにはレスリング競技での出場を目指すほどの実力を有していた。体重についても、道上の指導を受け始めた頃の実体重が82 kgに過ぎなかったにもかかわらず、1961年の第3回世界選手権時には108 kg、1964年の東京オリンピック時には120 kgまで増量に成功しており、その肉体の変貌もまた彼の競技人生における重要な側面を物語っている。
1961年ミラノ―「外国人初」の歴史的快挙