[ファイトクラブ]初めて“インドの強豪・ヒンズー・ハリケーン”TJSを意識した頃の思い出

[週刊ファイト11月9日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼初めて“インドの強豪・ヒンズー・ハリケーン”TJSを意識した頃の思い出
 by 藤井敏之
・今から50年前ファンタジー活字の妄想海外情報に興奮した子供の頃
・「タイガー・シンはアスラム・ペールワンではない」との当時の記事
・俺は一切ワニとは戦ってない!タイガー・ジェット・シン否定も・・・
・1973年5月4日新日プロ川崎市体育館『ゴールデン・ファイト・シリーズ』
・解説の桜井さんが「あれはヒンズー・ハリケーンです」
・突如の登場!日本マットと深く交わる運命タイガー・ジェット・シン
・1976年12月12日カラチA・猪木 幻のアスラム・ペールワンと試合


 今から50年前、親父の横でTVプロレスを観戦することにより少しずつプロレスに興味を持ち始めた頃、必ずや次の段階としてプロレス雑誌を手にしたくなる。当時190円という高価なプロレス専門誌を親に購入してもらい、学校の教科書以上に食い入るようにその本の隅々まで読みふけった子供の頃。
 そう1969年2月号のゴング誌、日本プロレスの年末大決戦であるジャイアント馬場対当時のNWA王座であるジン・キニスキーのインターナショナル選手権戦の試合結果の詳報、国際プロレスで活躍する無敵の人間風車ことビル・ロビンソンの活躍ぶり、さらには両団体の新春に来日する強豪外人選手の紹介や第11回ワールド・リーグ戦に参加するであろう外人選手を予想する記事などファンにとってはどれもワクワクする内容である。そんな中いつもゴング・レーティングスなる項があり人気選手部門、不人気(悪党)部門、レスリング・レビュー部門、ジュニア・ヘビー級部門のランキングに興味を持ちながら常に目を通していた。
 多くは雑誌やテレビで活躍する選手の名前が網羅されていたが、いつもレスリング・レビュー部門の中のベスト10に書き込まれているアスラム・ペールワンなる選手のイメージが浮かんでこないのである。

 そんな中、このゴング誌で初めてアスラム・ペールワンの特集が組まれその中で奇妙な名前を目にする。
 一体、実存するレスラーなのか架空のレスラーなのか解明する記事の中で、2人のインド人レスラーではないかと推測している。一人はカナダの西部,ブリティシュ・コロンビア地区で暴れてまくるタイガー・シン、もう一人はカナダ東部、米国北東部を舞台に暴れまくるヒンズー・ハリケーンである。

レーティングの上位にペールワンは明記されている タイガー・シン ヒンズー・ハリケーン

 タイガー・シンは大柄ではないがインド特有の引き締まった筋肉をもっており、豹を思わせる柔軟なバネと残虐なファイトを平気でやってのける野生的本能は、カナダレスラーの恐怖の的となっていると紹介されている。面白い事に当時、現地で戦ったグレート草津がタイガー・シン本人にアスラムについて質問すると、本人から逆に「アスラムというのは、一体だれか?」と聞かれた逸話が書かれている。
 ゆえ、このタイガー・シンはアスラム・ペールワンではないと結論づけされている。

 そしてもう一人のヒンズー・ハリケーンは3年前。突如モントリオールのリングに登場した身長187センチ、体重119キロの堂々たる体格で精悍無比の面構えはインドの最も勇敢なシーク族特有のもの、鋭い眼光は人を射殺せんばかり・・・パンジャブの猛虎をリングに放ったごとく、モントリオールに登場した時はフレッド・アトキンスがマネージャーに付きいわばジャイアント馬場と兄弟弟子である。
 さらにはリング登場において真っ白なターバンを頭に巻き、さっそうとリングに上がる様はヒンズー・ハリケーンことジット・シンはまさにインドの勇者の象徴とまで書かれている。
 ゴング誌によると1968年8月来日したブルーノ・サンマルチノにインタビューした時アスラム・ペールワンがヒンズー・ハリケーンかもしれないあるいは・・・とおぼろげに答えたそうだ。

 さらに同号には面白い記事があり、カナダで暴れるインドの強豪として近況報告記事がある。カナダでメキメキ頭角をあらわしてきた異色の新人としてタイガー・ジット・シン(当時の表記)が紹介されている。フレッド・アトキンスにしごかれてデビューした男が、持ち前のバネとインド系らしい粘りでとうとう本物になった。得意技はコブラ・ホールドといわれるもので、一種のスリーパー・ホールド。いったんかけたら相手が完全に失神するまで絶対にはずさないという技である。トロントのシティ・アリーナでジョニー・バレンタインの挑戦を退けた時もこの技でギブアップを奪う。さらに勢いに乗りメープル・リーフ・ガーデンに、時のWWWF世界チャンピオンのブルーノ・サンマルチノを迎え討った試合には9000人のプロレスファンが詰めかけるという大盛況の中、サンマルチノを追い込むが怪力殺法の前に場外へ、エキサイトしたタイガーはイスでメッタ打ちし反則負けとなる。近くNWA王者ジン・キニスキーにも挑戦するという。

 この記事を見て初めてカナダで活躍するヒンズー・ハリケーンことタイガー・ジット・シンなる名前を薄ら覚え、近々に日本マットに上がってくれることを期待したものだ。
 さらには1970年の夏、ファンク兄弟がBI砲(ジャイアント馬場&アントニオ猪木)と戦った決戦詳報号であるゴング別冊9月号の特別グラフ、『壮絶!これが恐怖のデスマッチだ』という特集の1ページに、見るからに不気味なワニと戦っているのはインド出身のヒンズー・ハリケーン。「ワニにヘッド・ロックが決まる?」なる記事を久々みて驚嘆したものだ。後日タイガー・ジェット・シンさんにこの記事の事を聞いたところ、俺は一切ワニとは戦っていないとの返答があった。

 意外と隠しておきたいデビュー当時の宣材写真であったかもしれない。
 さらには1971年発行の1971年度版プロレス年鑑にはタイガー・ジット・シンとして1941年生まれ。アマレスを経て65年カナダでプロレス入り。フレッド・アトキンスの秘蔵っ子で、スピード、粘り、テクニックなど期待の新人(191センチ、114キロ)と明記されている。


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