[ファイトクラブ]昭和を代表する二人のスーパースター(アントニオ猪木&藤原敏男)

[週刊ファイト5月5日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼昭和を代表する二人のスーパースター(アントニオ猪木&藤原敏男)
 by 藤井敏之

 いよいよ4月27日、東京・後楽園ホールにおいて“帰って来た藤原祭(CHAKURIKI15)”が行われる。キック創成期から脈々と続く日泰の対抗戦と藤原敏男自身が出場する格闘技スペシャルエキジビション6人タッグマッチ 2分2R 藤原敏男&藤原喜明&藤原国崇(国崇)vs. 藤原あらし&藤原康平(KING皇兵)&藤原秀旺が花を添える他、全10試合が行われる。
 さて、今回の主役である藤原敏男の戦歴を辿ってゆくと、プロレス界のカリスマであるアントニオ猪木と点から線として結ばれる奇妙な縁があることに気付く。

 1963年(昭和38年)大山道場(黒崎健時・中村忠・藤平昭雄)がタイ王国のバンコクへ乗り込み、空手対ムエタイの交流戦に臨み2勝1敗と勝ち越すも敗れた黒崎は打倒ムエタイを誓い1969年(昭和44年)キックボクシングジ目白ジムを創設、この年の7月藤原は目白ジムに入門し、同年10月には早くもデビュー試合を行っている。一方、アントニオ猪木は日本プロレスに復帰し2年経過、この年の第11回ワールド大リーグに初優勝、年末には世界最高峰のドリー・ファンク・ジュニアのNWA世界王座にチャレンジするまでに急成長していた。

 1971年、黒崎健時の目白ジムなどが集まり「全日本キックボクシング協会」が発足すると同時に、当時の参議院議員の石原慎太郎をコミッシュナーとして「全日本キックボクシングコミッション」も設立され、11月5日には初代ライト級王座決定トーナメントにおいて藤原は玉城良光に判定で勝利。のちの新格闘術転向まで王座を防衛し続けるという凄い記録を成し遂げてゆく。
 一方の雄、アントニオ猪木はその年の前半こそ女優の倍賞美津子さんとの婚約やロサンゼルスでジョン・トロスを破り初のシングル王座であるUN選手権獲得などプロレス人生を謳歌していたのだが、年末に突如として日本プロレスから猪木は会社乗っ取りクーデターの首謀者として除名処分にされる。まさに天国から地獄へとその人生は波乱万丈である。

 1972年4月、藤原はムエタイの殿堂であるラジャダムナン、ルンピニー両スタジアムで本場ムエタイ戦士と対戦する偉業を成す。
 前途多難なアントニオ猪木は新日本プロレスを旗揚げ! 同年ジャイアント馬場も日本プロレスから独立して全日本プロレスを設立、激動の日本のプロレス界は4団体時代に突入、中でも新日本プロレスはテレビ放映もなく日本陣営も来日外人レスラーも戦力不足の中孤立奮闘する。
 1974年3月、ボクシング界のプリンスと騒がれていた西城正三がキックボクシングに転向、16戦15勝1引き分け13KO勝ちと連勝街道をまっしぐらに進んでいた前に藤原が立ちふさがる。キャリア、テクニックで上回る藤原はパンチ一辺倒の西城に対し、バランスの良い蹴りとパンチで攻め続けKO勝ち寸前だったが、相手方のタオル投入によりTKOで勝利する。この試合は格闘技関係者だけでなく一般市民にまで話題が浸透。藤原の名前はどんどんメジャーになってゆく。

 その時期、アントニオ猪木の新日本プロレスはようやく軌道に乗り始めていた。前年、盟友である坂口征二と手を結ぶことによりNETのテレビ放映も付き、さらには大物日本選手であるストロング小林、大木金太郎戦を実現し撃破。さらにはタイガー・ジェット・シンの活躍などもあり一気にプロレス界の先頭を走り抜ける。

 1977年4月7日、藤原はタイのラジャダムナン・スタジアムでチャラポン・ソータイと対戦、お互い倒れるアクシデントがあったが、藤原の右肘打ち攻撃がチャラポンが倒れる寸前であると判定されムエタイ史上初の現役王者を外国人が破る快挙をなす。
そして、この年から遂に藤原と猪木の点が交わってゆくことになり始める。

 アントニオ猪木は1976年2月にウイリアム・ルスカ戦をスタートに同年6月には全世界が注目したボクシング世界ヘビー級王者・モハメッド・アリ戦を実現。その後も一連の格闘技戦を継続してゆく。1977年にはプロ空手(マーシャルアーツ)のモンスターマンと日本武道館で対戦。その前座でプロ空手ライト級王者のベニー・ユキーデは鈴木勝幸(相模ジム)と対戦。6ラウンド左フックでKO勝ちした。その試合をきっかけに11月『格闘技大戦争』と謳われたキック対マーシャルアーツの対抗戦が日本武道館で行われ、藤原はメインでワンナロン・ピラミッドを破り、日本キック勢が5勝2敗とマーシャルアーツ軍に勝ち越す。新日本プロレスの佐山聡も参戦したが惜しくもマーク・コステロに敗れたのもこの大会だ。

 1978年になると藤原はモンサワン・ルークチェンマイに4RKO勝ちし、ラジャダムナン・スタジアムライト級王座を獲得。ムエタイ史上初の外国人王者となった。ただ、同年6月7日、シープレイー・ガイソンポップ(ルンピニー&ラジャダムナンライト級1位:タイ)と対戦、惜しくも判定負けを食らう。この年猪木は順調にプロレス道を再び歩みだし、年末には若きWWWFF王者であるボブ・バックランドをリングアウトで破ったが王座は移動しなかった。

1978年12月18日、ニューヨークMSGでビンス・マクマホンSRから世界マーシャルアーツ王者に認定されたアントニオ猪木

 しかしWWWFより初代マーシャルアーツ世界ヘビー級王者として認定されることになる。

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