[ファイトクラブ]記者座談会:ダイナマイト・キッド追悼 ほとんど無一文で英国に傷心帰国。そのワケは・・・

[週刊ファイト12月16日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼記者座談会
 ダイナマイト・キッド追悼 ほとんど無一文で英国に傷心帰国。そのワケは・・・
・キッドさんの知られざるエピソードが語られた
・プロレスの試合を通じて本物の友情が芽生えた2人
・WWF入りに備えて急激に上半身を大きくした
・いずれにしてもファンの記憶に残るレスラーでした
・国際プロレス参戦のバディ・ウォルフさん追想


 1980年代に新日プロ、全日プロ、WWFのメジャー・マットで激闘を繰り広げたダイナマイト・キッド(本名トーマス・ビリントン)さんが12月5日、母国イギリスで死去。60歳だった。正確な死亡日時、死因とも不明だが、晩年のキッドさんはステロイドの後遺症などで闘病生活を送っていた。今号の記者座談会ではキッドさんの知られざるエピソードが語られた。

(*編注 A=『マット界舞台裏』特約記者、B=スポーツ紙記者 C=フリーのべテラン記者)

A 佐山聡氏がリアルジャパンの12・6後楽園で自らの最大のライバルだったダイナマイト・キッドについて熱く語りました。

B 佐山さんはビデオレターとかで不自由な体になったD・キッドさんをずっと激励していたんですね。プロレスの試合を通じて本物の友情が芽生えたのはあの2人ぐらいでしょ?

C 83年8月に初代タイガーマスクが引退した直後に2人は、講談社の『スコラ』という月刊誌だったと思いますが対談してるんです。とても仲が良さそうでした。で、翌84年11月にD・キッドがディビーボーイ・スミスと一緒に全日プロへ移籍した時にそのワケを聞くと、「そこ(新日マット)にタイガーマスクがいないからだ」とハッキリ言いましたよ。もし初代タイガーが辞めていなかったら両者の名勝負数え歌は初対決の81年4月から10年間続いていたかも。

A デビュー戦でD・キッドと対戦していなかったら初代タイガーマスクの大ブレークはなかった?

C いや、やっぱり大ブレークしてたでしょう。ただD・キッドの大ブレークの方はなかったかもしれない。79年に国際プロレスに初来日した時に互いのベルトを賭けて阿修羅・原と闘っていますが、その頃は並みのジュニア戦士という印象でしたからね。

B それにしても、あの小さな体でよくWWFに入れた。シングルでのトップクラス扱いじゃなかったけれど、D・スミスとのブリティッシュ・ブルドックスでビッグプッシュされましたからね。

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