[週刊ファイト9月20日号]収録 [ファイトクラブ]公開中
▼猪木vs.アリ 遠藤幸吉氏のジャッジを独自検証
by 井上 譲二
・遠藤幸吉氏のジャッジだけはフに落ちない
・猪木は大先輩でもある遠藤氏にまったく頭が上がらなかった
・NETが外国人招へい強化のため遠藤氏を外部スタッフとして迎え入れた
・新間寿氏「だって遠藤さんはNETの人間だもん」
「八百長だ」「いや、ガチだ」などと永久に論争が続きそうなアントニオ猪木vs.モハメド・アリ戦(76年6・26武道館)。当事者の証言がなければ“シロ”と判断するしかないが、いまだに遠藤幸吉氏のジャッジ(74-72アリ勝ち)だけはフに落ちない。今回はこの角度から世紀の一戦を独自検証してみた。
現役時代の遠藤幸吉氏は、日本プロレスの主力選手やプロレス記者から「イテテの遠ちゃん」と言われていた。外国人選手からパンチなどの反則攻撃を受けるたびに「イテテ・・・」と情けない声を発していたからだ。
やられ役の遠藤(左)、1966年旧・大阪府立体育会館でのスーツ姿の遠藤と日テレの原章ディレクター
プロレス創世期にプロ柔道家からプロレスラーに転向。力道山においしい所を取らせてもらったのは最初の5年間だけで、豊登や吉村道明が成長するとアジア・タッグ戦線に絡むこともなく№4に降格させられた。
ただ、力道山が63年(昭和38年)12月に他界すると遠藤氏は豊登、吉村、芳の里とともに日プロの重役に昇格。65年暮れに社長の豊登が失脚した後は背広組の№2となった。
他の幹部レスラーよりも英語が堪能だったことから遠藤氏は渉外を担当。71年3月26日、米ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムで行われたジョン・トロスvs.アントニオ猪木のUNヘビー級戦をセッティングしたのも遠藤氏だった。当然、当時の猪木は大先輩でもある遠藤氏にまったく頭が上がらなかった。
1967年8月の日プロ社長・芳の里、NWA会長サム・マソニック、遠藤幸吉
ところが、日プロ崩壊(73年3月)と、猪木が設立した新日本プロレスにNETテレビ(現・テレビ朝日)のレギュラー放送が付いたことで2人の立場は逆転する。