[ファイトクラブ]ケン・片谷『メシとワセダと時々プロレス』53 亜利弥’選手との想い出

[週刊ファイト9月6日号]収録 [ファイトクラブ]公開中

▼ケン・片谷『メシとワセダと時々プロレス』53
 亜利弥’選手との想い出
・「もう、来年の桜は見れないかもしれない…。」
・2016年1月に行われる『デビュー20周年興行』の記者会見の席上で
・プロレスラー亜利弥’はまだまだ終わらなかった
・2017年4月7日。この日が亜利弥’として最後の日
・YUJI-KITO選手を合わせた3人のユニット『WRESTLING NETWORK』興行
・宮城県での『東日本大震災チャリティープロレス』を一緒に成功に導く
・FM局出演後『よこはまコスモワールド』に遊びに行きはしゃぐ!
・オイラの大学生活を誰よりも応援してくれた小山亜矢さん


8月27日5時25分。

ついにこの時がやって来てしまいました。

元女子プロレスラー亜利弥’こと、小山亜矢さんの短い生涯が終わりを告げた時間です。
オイラが小山さんから直接病気のことを聞いたのは、確か2015年の6月頃だったと思います。

その日は、オイラの早稲田大学合格祝いを小山さんがしてくれるというので、一緒に食事をしました。

その時は寝耳に水で、「突然何を言っているんだろう。」くらいにしか思えませんでした。
何故なら、目の前にいるいつもの元気な小山さんと、ステージ4の癌患者とが全く結びつかなかったからです。

立て続けに小山さんは、「もう、来年の桜は見れないかもしれない…。」と言うのです。
そんな馬鹿な…。
桜なんてこれから何年も、いや、何十年だって見れるじゃないか。

だって、小山さんはいつもと変わらぬ笑顔でそんなことを言うもんだから、誰だって信じるわけがありません。

しかし、冗談にしては話の内容が重たすぎる。これは無理にでも受け止めなければいけないことなのかなと思いました。

その日の最後には、「ケンさんが大学に再チャレンジをし、合格したことがとても励みになっている。だから私も頑張れる。」というようなことを言ってくれたと思います。

すでに医師からは余命宣告を受けていて、新しい年を迎えられるかどうかの命だという。
そんな…。こんなに元気な人がそんなに簡単に死ぬ訳がない。
人間は、プロレスラーはそんなに柔ではないはずだ!

それから半年ほど月日が流れ、ついに小山さんは自身の病気について公表します。
それは、2016年1月に行われる『デビュー20周年興行』の記者会見の席上でのことでした。

ここで疑問が…。
小山さんのデビュー記念日は4月のはず。何故、デビュー20周年興行を1月に行うのか?
それは、「自分の命は4月まであるかどうかわからない。生きているうちに試合がしたい」との理由からでした。

相変わらず笑顔の会見だったけど、体はそこまで蝕まれているのか…?

新木場1stRingで行われた『デビュー20周年興行』は、リングサイドからの観戦となりました。
余命幾ばくもない体で、小山さんは見事にリングに上がりました。
なんと、試合型式はデスマッチ!
対戦相手の菊ちゃん(菊澤光信)が、容赦無しに小山さんの体を有刺鉄線バットで殴り倒します。
その度にオイラは目を覆ってしまいました。
それでも小山さんは、最後まで自分の足でリングに立っていました。
ひと度リングに上がったら、病人だろうがなんだろうが、一切の手抜きをせずに全力で闘うという姿勢を見せた、菊ちゃんのプロ根性も見事でした!

▼’16年1月21日号中邑ショック2 亜利弥’20周年 W-1 中国遠征天山英雄 新日キックRIZIN巌流島

【週刊ファイト!マット界舞台裏】中邑ショック2/亜利弥’20周年/W-1/中国遠征天山英雄/新日キックRIZIN巌流島


『この日が、亜利弥’の引退試合』
誰もがそう思ったに違いありません。ところが、プロレスラー亜利弥’はまだまだ終わらなかったのです!

入退院を繰り返しながらも、小山さんはもう一度リングに上がる夢を決して忘れませんでした。
その夢が、間違いなく生きる活力となっていたのです。
小山さんは、死の淵から何度も何度も立ち上がり、その度に奇跡を起こし続けてきました。

その年の花見は、小山さんと一緒にしました。横浜の桜の名所、大岡川のほとりを一緒に歩きました。
横浜は、かつてjd道場があった場所。プロレスラー亜利弥’がスタートした想い出深い場所でもあるのです。

そして、その一年後、もう一回桜を見る機会が訪れた頃、彼女は再びリングに上がったのです!

2017年4月7日。この日が亜利弥’として最後の日となりました。
嬉しいことに、オイラにもオファーがありました。メインのバトルロイヤルに出場し、一瞬でしたが亜利弥’選手とコンタクトすることができました!

最後は、立っているのもやっとでしたが、仲間のレスラー達に支えられて、公言通りしっかりと自分の足でリングを下りて見せました!

さらにそこから一年…。

また、桜の季節がやって来ました。
「もう見れないかもしれない…。」と言ったあの日から、なんと3回も桜を見ることができたのです。
これは奇跡か? いや、これは小山さんの“生への執念”以外の何物でもないと思います。

本人の希望もあり、治療に専念するため、仲間との接触を控えていた頃なので、実際どの程度小山さんが花見を満喫したのかは定かではありません。
しかし、確実に生きた証を継続させていたことに間違いはありません。

オイラが初めて小山さんに会ったのは、オイラのデビュー間も無い頃、つまり2000年頃だったと思います。
当時中野にあった、『ソフトオンデマンド』のビルの中にプロレスのリングが常設されていて、よく出稽古に行ったものです。

コーチはジャガーさん。
そこでよくご一緒させていただいたのが亜利弥’選手でした。

プロレスのキャリアでは、亜利弥’選手が4年先輩ですが、年齢はオイラの方が6歳上です。
そんな複雑な間柄でしたが、プロレス引退後は“いいお友達”になれました。

現役時代、亜利弥’先輩には公私共にお世話になりっぱなしでした。
自主興行で、女子選手が必要なときはいつも力を貸していただきました。

北海道巡業でもいつも一緒でした。
移動、宿泊、ちゃんこ(食事)…。生活の全てを共にするので、団体は違えどまさに『同じ釜の飯を食った』仲間です。

北海道のとある会場で、4月1日つまりエイプリルフールに試合があったとき、まんまとみんなを“嘘”で翻弄しましたね?
あのときは、小山さんとリッキーさんが手を組んで、みんなを騙したんですよね?
あれは見事な演技でしたよ!
みんな控え室でバツが悪そうにしていましたが、オイラはいち早くあの場所から逃げようとしたんです。そうしたら、運悪く扉の鍵が閉まっていて、結局最後まで逃げることができなかったんです(笑)!

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