[ファイトクラブ]超人よさらば! 日本育ちの全米スター、ハルク・ホーガンの功罪

[週刊ファイト8月7日期間] [ファイトクラブ]公開中

▼超人よさらば! 日本育ちの全米スター、ハルク・ホーガンの功罪
 by 安威川敏樹
・プロレス入り前夜のホーガン、『ウソっぽい』プロレスに目覚める!?
・ホーガンが遂に初来日! A猪木、Sハンセンとの対決
・ハンセンの移籍と共に大ブレイクしたホーガン
・スーパースターとなったホーガンがプロレス界に与えた悪影響
・ハルク・ホーガンは、世界的社会不安の象徴的存在なのか!?


”超人“ことハルク・ホーガンさんが7月24日に71歳で亡くなった。ホーガンさんはプロレス界が生んだ史上最高のスーパースターと言っても過言ではないだろう。
 アメリカのドナルド・トランプ大統領が追悼の意を表したほどだ。大統領がプロレスラーの死についてコメントを発表するほど、ホーガンさんはアメリカを象徴する人物だったのである。
(本文中敬称略)

▼追悼・ハルク・ホーガン-リングに超えて刻まれた「永遠の存在」

[ファイトクラブ]追悼・ハルク・ホーガン-リングに超えて刻まれた「永遠の存在」

プロレス入り前夜のホーガン、『ウソっぽい』プロレスに目覚める!?

 ハルク・ホーガンは1953年8月11日生まれ。子供の頃は野球が好きで、パワー・ヒッターだったという。だが、当時は太り過ぎで足が遅く、野球とボウリング以外の運動はサッパリだった。
 肥満体型を克服するため、高校ではボディービルに励む。と同時にロック・バンドを組み、ベーシストとして活躍した。高校生ながら、音楽でそこそこのカネを稼いでいたのだ。

 その後、ボディービルで鍛えた巨体を活かすために元々好きだったプロレス界入りを目指し、ヒロ・マツダ道場に入門。しかし、ホーガンはスパーリングでマツダにシュートを仕掛けられ、フルボッコにされる。どうやらマツダは、ホーガンにプロレス入りを諦めさせようと思っていたらしい。
 その後、エディ・グラハムからコーチを受けるが、グラハムの教えはマツダとは真逆だった。マツダはホーガンに相手を痛めつける裏技をレクチャーしたが、グラハムは相手を痛めつけてはいけないと言う。この時、ホーガンは初めてプロレスとは真剣勝負ではなくショーだと知った。真実を知ったホーガンは最初、プロレスに失望したと述懐している。

 ちなみに、漫画『プロレススーパースター列伝』(原作:梶原一騎、作画:原田久仁信)では、子供の頃のホーガンはプロレスのことを『ウソっぽい(つまりショー)』と嫌っていた。本物のホーガンはプロレスを『ウソっぽい』とは思わなかったのだろうか?
『列伝』でのホーガンが憧れていたのはモハメド・アリ。体がデカすぎたためボクサーへの道は諦めたが、音楽にのめり込んで仲間とバンドを組む。ただ、『列伝』ではベーシストではなくギタリストだった。

 そんなある日、ホーガンは衛星中継でアントニオ猪木vs.モハメド・アリを目の当たりにする。寝転がってのロー・キックにより、アリに何もさせなかった猪木に衝撃を受けてプロレスの強さ、凄さを知り、打倒猪木を誓ってプロレスラーになるのだった。
 もちろん、実際には前述した通り猪木vs.アリがプロレス入りの動機ではないのだが、『ウソっぽい』はずだったプロレスが、ボクシング史上最強の男を防戦一方に追いやった、それがホーガンを心変わりさせたというストーリー展開、さすが梶原先生である。

ホーガンが遂に初来日! A猪木、Sハンセンとの対決

『列伝』では、ニューヨークでデビューしていきなり26連勝を達成するが、実際にはそんなに甘いものではなく、ハルク・ホーガンのリング・ネームを使用するのはずっと後の話。
 1977年、ホーガンは覆面のスーパー・デストロイヤーとしてデビューする。スーパー・デストロイヤーを名乗った覆面レスラーは何人もいるが、ホーガン版はほとんど売れなかった。

 その後、素顔に戻って何度かリング・ネームを変えるがサッパリ芽が出ず、肉体労働を始める。こちらの方が稼げて、さらに安定した収入もあるので、プロレスは辞めようと決心した。
 しかし、そんなホーガンを熱心に引き留めようとしたのがテリー・ファンクだ。テリーはビンス・マクマホンSr.を紹介し、ホーガンは1979年にWWF(現:WWE)入りすることになる。そして、テレビ・ドラマの『超人ハルク』にあやかり、ハルク・ホーガンのリング・ネームで再デビューした。

 WWFに登場したホーガンは連戦連勝。前述の『列伝』での26連勝は、この頃の話である。さらにはアンドレ・ザ・ジャイアントのライバルとなり、遂にプロレスラーとして成功を収めることとなった。
 なお『列伝』では、猪木を倒すためにはこのままではダメだとニューヨークを去り、ヒロ・マツダ道場に入門することになっているが、これは時系列が逆。前項でも書いたように、ホーガンがマツダ道場に通い始めたのはデビュー前である。

 1980年、ホーガンは遂に初来日。当時、WWFと提携していた新日本プロレスのマットだ。最初のシリーズでホーガンはいきなりアントニオ猪木とシングルで闘うという破格の扱いを受ける。
『列伝』ではこの時、ホーガンの抜擢に嫉妬した外国人エースのスタン・ハンセンが乱入して試合をブチ壊し、ホーガンとハンセンは対立するが、実際にはホーガンとハンセンは協力して猪木を痛めつけていた。

 この年の暮れにはホーガンはハンセンとタッグを組み、マジソン・スクエア・ガーデン(MSG)タッグ・リーグ戦に参加。アントニオ猪木&ボブ・バックランドに次ぐ準優勝を遂げる。
 翌1981年のMSGシリーズの公式戦では、ハンセンとのシングル戦が実現。実はハルク・ホーガンを名乗る前のスターリング・ゴールデンというリング・ネームだった時代に両者は対戦していたが(結果はホーガンの反則勝ち)、日本でトップ外国人となっていた時の対戦ということで注目される。

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